その2

         

『知られざる日本野鳥の会』 
ー手塚治虫さんも、サンクチュアリに協力したけれどー99.2.20

 僕が初めて日本野鳥の会スタッフの方々と会ったのは、昭和54年(1979年)の始めだから二十年程前になる。
 最初のむつ小川原開発のさなかで、日本野鳥の会が主催する現地反対グループとの会合を兼ねた探鳥会ツアーに参加した時のことであった。
 僕と同行したのは、当時担当だった学研、科学の編集者三谷英生さんと、彼の先輩との三人である。
 若い編集者三谷さんは、漫画が好きで、僕と秋竜山さんの漫画を連載させていた。
 その一方で、フィルム代を稼ぐためにガソリンスタンドで働いては、フイールドに入るような若い自然写真家をバックアップし続けてもいたのだった。
 若い写真家というのは無名時代の嶋田忠、栗林慧、宮崎学氏などだ。
 三谷さんは現在ネイチャープロの経営者である。

 さて、むつ小川原の夜、旧い大きな旅館の二階にある大広間で、探鳥会参加者の懇談会のようなことがあった。実はこの時、誰がいたのか記憶がない。
 まだ学生だった柚木修さん(現在執筆活動やテレビ番組の制作で活躍中)に後日聞いた話では、市田則孝さん(現・日本野鳥の会理事)をはじめ、柚木さん、その他の野鳥の会事務局スタッフメンバーがいたそうである。

 僕は、オジロワシが見られるというので参加したものの、昼間、遙か地平線にプロミナー(望遠鏡)でダニの眼球程にしか見られなかったのにがっかりしていた。
 だから話の内容もよく覚えていないけれど、ひとつだけ日本野鳥の会が近々錦糸町のデパートの階段を借りて展示会をやることになっていて、その作業手順などを話をしていることが気になった。
 これでは学生のサークルか、小さな町の野鳥同好会ではないかと思ってがっかりしたのである。
 ダニの眼球オジロワシのがっかりと、このがっかりで、がっかりの二乗である。
 
 たしかに当時の野鳥の会は、名前は大きかったけれど、実態は中西悟堂さんの個人サークルのようなものであった。

 そこで、がっかりついでにとでも言おうか、つい口にしてしまったのが
 「どうせやるなら日本中の注目を浴びるようでなくては、チマチマやっていればいつまで経っても器は大きくならない」てなことである。
 ま、言ってしまった以上は、なにか一つぐらいはお手伝いをしなくてはしかたがない。
 
 当時漫画集団は、毎年ソニービルで交通遺児育英会の玉井さんのところに対してチャリティイベントをやっていて、僕がその企画実行を担当していたから、ソニービルの賀田恭弘さんにお願いしてみることにした。
 ソニービル創設以来ずっとあの銀座の一等地ソニースクェアーを管理監督してきた重役である。
 「実はこうこうで・・・一フロアー貸して頂きたいのですが・・・金はありません」
 いつものようにニコニコしながら賀田さんは
 「いいですよ」と二つ返事。
 いまさらながらこの方はただ者ではない。
 さらに「じゃ担当のO君をつけましょう、先生の先輩ですよ」と言ってくれた。

 Oさんは、実に不思議な運命を辿る方で、海上自衛隊出身だから僕の先輩にあたる。
 自衛隊退職後、警備会社に就職したOさんは、ソニービルの警備を担当した。
 深夜の警備中、本人曰く、「退屈だったから」、汚れていたトイレを掃除していたところ、それをソニービルの人に見られて話題になり、「あいつを引き抜け」
 それだけの理由でソニービルの正社員になった方である。

 ある時、サントリーがソニースクェアーで広告イベントをすることになり、スクェアーに水を張って池をつくり、そこにサントリーの王冠を沈めた。
 それを見たOさんが、「あんたたち、なんてことをするんですか、自分ところの製品を。失礼じゃないですか。すぐに取り除きなさい」
 仰天したサントリーの宣伝部は、ソニービルの担当者に叱られたと言って会議を開き、それにしてもあいつは凄いヤツだ、で、「あいつを引き抜こう」ということになったそうである。

 まぁ、それにしてもソニーにしろ、サントリーにしろ企業が大きいと人も腹も大きい。懐が深い。かようにして人材を集め、集まるのだろう。
 このプロセスには学歴なんてものは微塵も見えないのである。

 後に大阪ソニービルが出来た時、Oさんは、そのトップとして行った。
 仕事で大阪に行った時、何度が逢ったけれど、何度目かに訪ねたら彼はいなかった。
 聞いてみると、「小指(これ)」で会社を退職(やめ)ました。
 のだそうであった。
 いやー、実にもったいない。
 漫画集団の哲学「情事と善行は隠れてやるものだ」を伝授してやるべきだった、と悔やまれてならない(^-^)。


 脱線してはいけない。
 世の中狭いもので、実はこのOさんの義兄が野鳥の会鹿児島支部長だというのである。
 かくして話はトントン拍子に進む。後はOさんと野鳥の会で企画し実行するだけだ。

 一方で、僕は乗りかかった船だからなんとか盛り上げたい。
 そこで仲間や友人で協力してくれそうな人に頼み込んだ。手塚治虫さん、黒田征太郎さん、長友啓典さん、やなせたかしさん、はらたいらさん、多々良圭さんが実に快く二つ返事で引き受けてくれた。
 例によって「実はこうこうで・・・それで金はない」と言ったにもかかわらずである。
 今は、手塚さんと多々良さんは鬼籍の人である。

 会場でTシャツを販売しようと思い立ち、黒田、長友両氏と僕とやなせさんの絵で作ることにした。
 ところがTシャツを制作する金もない。
 そこで石津謙介さんのVANに電話して「実はこうこうで・・・」と決まり文句でお願いしたら、これまた二つ返事で「面白いですね、やりましょう」と言ってくれた。
 VANに原稿を持って行った当時編集部の竹下信雄さん(現鳥学会)から電話があった。
 「なんだ、岩本さんVANは知らないところだったんですか、てっきり知っている方だとばかり思ってた。驚いたなあ」

 この時のTシャツは、実に丁寧な作りで絶品であった。
 ボランティアにもかかわらず、手を抜かない企業姿勢を垣間見た。
 今これを持っていればプレミアものである(^-^)。

 さて、当日は手塚さん、やなせさん、はらさん、多々良さんが手弁当でサイン会にきてくれた。
 野鳥の会の柚木修さんの友人、浅草三社祭の仲間たちがハッピ姿で景気づけをしたりで、もちろん大盛況であった。

 市田則孝さんが「中西先生が、挨拶したいと言っているので」と中西悟堂さんに紹介される。
 「このTシャツを描いた岩本さんです」
 日本野鳥の会の創設者である野鳥の大家中西悟堂さんは、Tシャツを一瞥して言った。
 「これ間違っている」
  デフォルメした漫画のフクロウを見て間違いを指摘して下さった。
  僕が中西さんに逢ったのは、これが最初で、最後であった。
  だから、中西さんが、ミッキーマウスを見て、このネズミ間違っているとおっしゃるところを見てみたい、と思うほど僕には素晴らしい想い出である。

  中西悟堂さんも今は鬼籍である。

 数日して、市田さんが「岩本さん大変ですよ、あのイベントが大盛況だったもんで、野鳥の会を止めると言っていた中西先生が、また元気づいて意欲を示し始めて、感謝してましたよ」と喜んでくれた。

  しかし、中西さんから見ると事実は全く違っていたようで、喜んでなどいなかった。

 中西さんは、後に自著「野鳥開眼」ー真実の鞭ー(中西悟堂著 永田書房刊)にこの間のことを克明に記している。
 前略
 昭和五十四年五月十日、ソニーでバードウィーク写真展の第一日を見に行くと、市田が息をはずませて寄ってきて、「先生、今日はえらい人がきています。会長からご挨拶願います」と言うので
「えらい人とは誰かね」ときき返すと
「岩本久則さんです」
「どういう身分のお方かね」
「漫画家ですよ、先生」と力を入れる。
「ほう、漫画家がそんなにえらいのかね」
「でも漫画家としては大物です。えらいんです」
「わかった、ご挨拶申し上げよう。がそう一々えらいえらいと言わんでもいいよ」
「それに今日は岩本さんの門下たちが協力して働いてくれています」
 私はその岩本氏に会釈すると、門下が働いてくれている光景を見に行きました。
あるコーナーに二つの卓と椅子が並べてあり、どちらの卓上にも色紙を山と積み重ねて、ふたりの長髪族が何とも下らぬ漫画をパッパッと速射砲的に描いては一枚千円で売っています。
またそれを何の抵抗もなしに次々と買ってゆく人々があるのは、サンクチュアリーの募金という呼びかけがあるためでしょう。
それにしても下品をそのまま絵にしたような漫画を持ち帰っても置き場所に困るであろうしろもので、絵そのものの無責任ななぐり描きといい、その早さといい、まともに見てはおれぬ光景です。
が、そればかりではなかった。近くの一段高い壇上で事務局の柚木修が
「さぁさあいらっしゃいいらっしゃい、漫画はこちら。漫画家の先生たちは、あと十数分でお帰りになります。色紙一枚たったの千円。破格の廉価でございます。さぁ、いらっしゃいいらっしゃい、漫画はこちらの部屋です。お早く、お早く」
 
私は後日のため、彼の口上をそっくりノートにとめました。柚木は人のよさそうな顔に笑みを浮かべて客寄せをつづけ、小卓の方では三十才前後の、どちらもむさ苦しい長髪の漫画家がパッパッと描き散らして、みるみる色紙の山を低くしてゆく。

 ショックでした。からだ中から血の気の引くような嫌悪を覚えました。
 いくらサンクチュアリの募金集めとしても、野鳥の会もここまで下落したかと思った。
 後略
 と書いている。

 中西さんが僕の門下と書いたのは、手塚治虫さんや、やなせたかしさんなどのことである。
 むろんお二人は僕の大先輩だし、はらたいらさんと多々良圭さんは僕より年下とはいえ、立派な漫画描きであり、僕の門下なワケがない。
 だから、これは事実と異なる。
 長髪でむさ苦しいというのも、手塚さんが聞いたら苦笑するに違いない。
 それにしても、下品をそのまま絵にしたような漫画を持ち帰っても置き場所に困るであろうしろもの、なんてことは、忙しいのに手弁当できてくれた漫画家はむろん、ご自分の組織のために金を出して協力してくれた方たちに対していう言葉ではない。無礼である。
 とても僧籍にあった人の言葉とは思えない。

 最近、柚木修さんは「岩本さんは、あの頃、よく野鳥保護は社会正義だ、といってましたよ。そんな甘言に乗せられて・・・・・」とよく僕をからかう。
 ふたりともスレッカラシのおじさんをしている今日この頃だから、面映ゆい。
 あの頃、なぜああいうことが出来たのかを考えると、あれは「気(け)」であった。
 パワー、情熱、ベクトル、勢い、無私、目に見えない、説明が付かないそんなものが凝縮されて「気」として現れる瞬間があるように思えてならないのである。  
 野鳥の会には「野鳥保護」という強い「気」があった。
 仲間や友人や、ソニーの賀田さんや、VANにも、話せば通じるほどの強い「気」があったのである。
 今では不可能な出来事であった。

 その後、事務局長市田則孝さんは、組織改革に努め、やがて中西悟堂さんは辞任した。
 上記、「野鳥開眼」ー真実の鞭ーは、そうした「革命」前後のいきさつを、書簡などを含めてまとめた本だが、破れた者の退行現象とも見られる狼狽のなかで書かれたものだから、バイアスを差し引いて見て差し上げるべきかもしれない。
 が、しかし、文人墨客と親交が深く、自らも俳号を持ち、野鳥と文化の融合を目指した悟堂さんが、元の部下に対して実名で罵詈雑言を述べた文章はあまりにも哀し過ぎる。

 一方、革命児市田則孝さんは、その後多くの仲間が離れて行き、日本野鳥の会本部からは 「気」が消滅した。
 あの時の「気」は、むしろそうして離れていった、竹下信雄、花輪伸一、柚木修、杉本剛、中村玲子、園部浩一郎など多くの人たちに残っている。
 もし、これらの人材が野鳥の会に残っていたら、最強の自然保護軍団が実現していただろうと思うと悔やまれてならないのである。
 今、残留した有志の人と、若い人たちの手で「気」が醸成されつつあることを、スッレカラシのおじさんたちは、願って止まない。

 革命は、勝つも負けるも悲哀が漂う。









『終焉』99.01

 数年前、北海道の、とある秘湯といわれる温泉に行ったことがある。
 夕刻、窓の外を眺めていると一台の乗用車が到着して内から両親と小学の低学年と思われる兄妹が降りてきた。
 子供たちが両親に、今さっき見てきたばかりのエゾシカや、キタキツネや鳥のことを身振りを交えながら興奮が抑えきれないように代わる代わる矢継ぎ早に話しかけるのが聞こえてきたのであった。
 夕食時、我々のグループと先ほどの親子は同じテーブルを囲むことになった。
 「一番右のエゾシカは、茂みに入ってもまだこっちを見てたよー」
 「デーッカイ目でねー」
 子供たちは私たちがいることなど意にも介せず、先ほどの興奮は食卓に持ち込まれてもまだ持続されたまま、見てきた生き物の話は続いている。
 つられて私たちの口元までが弛むのは仕方がない。
 旅館の女将が、テーブルに並んだいくつかの皿や食器を避けるようにして大皿を運び込んできて、いくつかに分かれたメタに火を付けながら云った。
 「はい、これは今さっき捕ったばかりのエゾシカですよー」と微笑んで置いた。
 それは、客を喜ばせたい女将の心根が読みとれる笑顔であった。
 一瞬、場に白い閃光。
 私の仲間たちは、顔を見合わせた。
 はしゃいでいた子供たちの口は閉じ、静かに首を垂れ、そのまま再び口を利くことはなくなってしまった。
 先ほどのあの上気した興奮は嘘のようにけし飛んでしまったのだ。
 やがて両親は、箸を付けない子供たちを伴って部屋に戻っていった。
 翌朝、朝食に起きた時には既にあの家族の車はなかった。
 女将に我々が鹿肉に手を着けなかったことを謝すと、「いやね、うちも本当は出したくないんだわあ、でもハンターが持って来るんだわあ。昨日も、まだ生きてるよっと云って置いていったんだわ」
 シシ肉、熊肉などを売りにする旅館の時代が終焉を迎える兆しの水滴が一滴、
・・・ポツン・・・・・と落ちたような気がしたのであった。




























「沖縄にジュゴンがいた」2(沖縄の慶田城健仁さんからのメールです

あけましておめでとうございます。

昨年12月14日に、名護市辺野古海岸へジュゴン探しにいってきました。
ジュゴンには会えませんでしたが、海岸から200bほど離れた岩礁が印象的でした。
トゥングァ(殿小)という岩で、ニライカナイの神(庵主kyusoku註:毎年、海の彼方、或いは海の底、地の底にある豊穣の楽土から訪れ、豊作を運んできてくれる恵の神。沖縄は、神の国、守礼の国です。ここにヘリポートを作ることは、靖国神社や、明治神宮の上に高速道路が走ることになっても「へえ、やるもんだねぇ」と云う程度の我々とは、段違いの不快さを感じるのが沖縄の人たちの心なのです)が降臨する聖地とのことです。海上ヘリポート基地予定地そこにほとんど隣接して建設されるとのことです。

辺野古海岸にはリュウキュウアマモやボウバアマモといったジュゴンのえさが多数打ち上げられていました。
そこの海の景色を撮ってきましたので添付します。

 ことしもよろしくお願いします。        1998年1月1日

(琉球新報コラムに同様の記述があったので許可を得て転載いたしました)
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ニライ・カナイ
 聞くと見るとでは、こうも違うのか。昨年暮れ、住民投 票渦中の名護市辺野古の海岸を訪ねた時の率直な感想だ。 海上基地のイメージは、ここの潮風の中なら容易に理解で きる

▼漁港から二百メートル離れた海中に周囲が百メートル足 らずの石灰岩岩礁がある。その先端に立ち太平洋に向か う。水平線と平行に白い波頭が走っている付近がリーフだ が、そこはもう泳いでもいけそうな目の前

▼リーフの内側に南北一・五キロ、海面から十メートルの 高さに築かれる構造物が、杭(くい)式工法によるヘリポ ートだ。工法次第で、視界から白波と水平線の日の出が消 える。一変する辺りの景観を想像するのはたやすい

▼岩礁は、辺野古トゥングァと呼ばれる聖地である。海か らみれば村を背に大海原に向かう。その最東端に、円すい 状の巨岩がある。与那国島の立神岩を思わせる美しい岩 で、形状からフデ岩や飛び石などの名があるそうだ
▼トゥングァはかつて干潟の中にあった。護岸工事で陸続 きになったが、ニライ・カナイの神の降臨地とされ、海上
安全の祈願をはじめ旧暦四月と十月には海岸から拝みが行 われている。フデ岩を南側から仰ぐと、まるで穏やかな仏 陀の横顔のように見えた

▼海上基地の候補地選定にあたって、祭祀(し)や信仰を 含む「村のこころ」がどれほど顧みられただろうか。見返 り振興策が華々しい陰で、ニライの聖地に危機が迫る。

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