*何しろ洋楽、ただ聴いているだけでは歌詞もわからず情報も無し、なもんで知っていくうちにどんどんイメージが変わっていく人もおります。このアルバート・ハモンド氏もそんな人。私が洋楽聴き始めの頃それはもうガンガンヒットしていたのが「カルフォルニアの青い空」、そののんびりした曲調うららかなメロディから能天気な西海岸賛歌なのだなあと思っておりました。次のヒット「落ち葉のコンチェルト」での胸かきむしられるメロディでおっと思ったもののイメージはほぼそのまま。それが変わりだしたのがごく最近、チャートを改めて追っかけて彼の他のシングルを聴いてから。これがやけに英国ぽい。しかも奥深く。あれアメリカの人じゃ無かったのてなもんで。で今回1STのアナログを入手して対訳付で聴いてみたらまたこれが素晴らしく、同時に謎も氷解しました。一筋縄ではいかない経歴の持ち主だったのだ。
彼のインタビューがそれには入ってましてちょっと抜粋してみますと、まず生まれは1942年5月18日、スペインはジブラルタル生まれ。13歳の時家出してモロッコに渡り音楽家デビューはモロッコのうらぶれたストリップ小屋だったそう。そこにいた20人ものストリッパー嬢に様々な音楽を聴かせてもらい1年半後スペインに帰郷。家には戻らずレコード会社のオーディションをいくつも受けるが断られ16歳でようやくRCAと契約することが出来ました。はりきってバディ・ホリースタイルの曲を書くもお前の仕事はアメリカイギリスのヒット曲をスペイン語に直して歌うことだと言われがっくし。しかたなし従ったらそれが何と本家よりヒットしてしまったとゆう。そんな毎日に嫌気がさしてまた放浪の旅に。今度はビートルズ旋風吹き荒れる英国へ。とりあえずレコード出したりTVに出たりしたものの全てがうまく行かず皿洗い、運転手、工場労働者とバイトに明け暮れる始末。女性関係でももめてしまって、そんな時に出会ったのが曲作りのパートナー、マイケル・ヘイゼルウッド氏。これが68年のこと。彼と出会って再び音楽に本腰を入れ作曲活動に身を入れ出すことに。リーピー・リーとゆう歌手に提供した「リトル・アローズ」が大ヒット。次に何と知らなかったあのジョナサン・キングのプロジェクト、ピプキンズの「ギミ・ダット・ディン」を書いてこれもヒット。音楽仲間もレッド・ツェッペリンの面々、ブルー・ミンク、マジック・ランタンと広がりソロとしても再デビュー、録音したのが何故かアメリカはLA。それがこの盤とゆうことです。な訳でこの盤に収録してる曲の歌詞はそれまでの彼の半生がもろ反映されておって。まー辛(から)いこと辛いこと。件のカリフォルニアの青い空だってけっして賛歌などではありませんでした。イーグルスも裸足で逃げ出す虚飾剥ぎ辛らつソング。ランディ・ニューマン実体験版。5.の哀しみのミュージシャンなどは歌詞を読んで聴くのが辛いくらい貧乏な音楽屋の話で。1.の世界に平和をではTV、政治家の言うことを決して信じるな、2.の光を求めてではチャンスが有ったら死に物狂いでもにしろと。3.のカリフォルニアに愛をこめてではここはろくでもないところだからイギリスに帰ろうだって(^_^;)。そして最後のホリーズのカバーでヒットした”安らぎの世界へ”では真に迫っての安らぎ希望。とまあこんな感じだけどそれが極上のメロディに包まれてそうです一見聴くだけだとナイス・ポップス。こんなことされたんじゃはまらない訳は無い\(^o^)/。人々の記憶には残るけど音楽雑誌の文字には残らなかった歌手、アルバート・ハモンドさん。遅くなったけどこれからじっくりつき合わさせていただきます。よろしくー。
(マスター)2004.10.25
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