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Kの音楽史
U
by Kuni

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さて、運命(?)の1971年(昭和46年)を思い出していきましょか・・・
ソニーのラジカセ(あるFMの周波数に合わせると音が飛ばせる機能が付いてた)を手に入れ、TVでは土曜日の深夜にやっていた「ナウ・エクスプロージョン」(JUN&ROPE提供)という洋楽のプロモを流す番組があり、うれしいかったです!!
あとこの年の4月位から「ML」と「音楽専科」を買い始めました。たまに「LM」も買っていましたね!今では信じられないかも知れませんが30年前の中学生の女子でロックを聴いている子は皆無って言い切れる程で「ひろみ、秀樹、五郎」の新御三家が出てきた頃でまた吉田拓郎をはじめとするフォークブームと時を同じとしてましたので女子はそちらの方へ行かれた様です。1971年はラジオでは色々なロックを聴いていましたが、ビートルズのLPを集めるのが精一杯で、かろうじて一番好きだったジョンの「イマジン」を9月に買っています。シングルですとシカゴの「長い夜」やバニティ・フェアの「夜明けのヒッチハイク」など買っています。書くのを省こうかとも思いましたがこの1971年6月に同じ中学のK君との出逢いが有りました。前に書いた深夜放送の「ビップヤング」(リクエスト番組)にポールの「アナザーデイ」を学校名とクラス名とクラス名簿のナンバーのみでリクエストしましてそれを偶然にもK君が(クラスは違いましたが、その当時は名簿というのがちゃんと配られていましたので、分かったそうです。)聴いておりリクエストしたワタクシはというと早く寝てしまって聴かずじまいだったんですが・・・・某付属中学でしたので彼は全くの(今思うとなんてことないんですが)異端児でありました。&他の女子にもモテテいたそうで、他の女子に「ホントにつきあってるんかぁ?」と詰め寄られたりもしました。(モテテたことにしといてください。大笑!)
ちょっとワルでして屋上でタバコすったりスグ上に公立の中学校も有ったんでソコの生徒とケンカしたり、(父親を中1の夏にガンで亡くしていました)なんかますますジョンぽいK君に夢中になり先生からは「朱に交われば赤くなる」と言われ「私が白ならピンクじゃん!」なんつう受け答えもしてしまう「ロック少女」になっていきました。

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K君から私の知らないロックのこととかも教えて貰い、ますます勉強しないようになっていきました。1972年、中3になる前、なんか有ってこのK君とも疎遠になってしまい(他の女の子とも色々あったようです)学校で顔を合わせるコトもあったのですがハナシはしなくなってしまいました。でまた、ひとりでロックを模索するコトになり丁度、プログレッシブ・ロックが出てきたころで特にエマーソン・レイク&パーマーにはまり中3の夏休み、母と東京の叔母の家に行ったついでではなくコンサートがメインでして初めての外タレロックコンサートに後楽園に行きました。(想い出ライブにも書いてます。)あとイエスにもハマリました。「こわれもの」はこわれるほど聴きましたぁ。はなしは前後しますがこの年の3月に当時の中学生ではとても高価な3枚組LP「コンサート・フォー・バングラ・デシュ」(多分、なんか親にねだって買って貰ったと思う)や6月にはストーンズの「メインストリートのならず者」(2枚組)も買っています。
その後は残りのEL&PのLPやビートルズのLPを買いその後初めてのブートはビートルズの「ウイスキー・フラット」を買ってます。そして約半年を経てK君との交際が復活し私は早くも「コイツに人生を託すぞ!」(相手はまだソコまで思ってなかったらしい)と心を決めLP買うのもダブらないように考えて買うようなチャッカリとしたロック少女になっていきました。そうそう「メインスト・・・」で思い出しましたがTVで草刈正雄とあと2人司会がいた「サンデーヒットパレード」が日曜日の夜に始まり「ダイスをころがせ」が1位になったりしてソレを秀樹や五郎が歌っていましたよ!!

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1972年の秋口にはビートルズ→ジョージ→エリック・クラプトン→クリーム→ブルースブレイカーズ→ヤードバース・・・と展開していき(その当時はK君の買う担当でした)ますます、ロックへの探求は深まっていきました。高校はどうするかという問題を考える時期が来てK君は国立高専の機械工学科へ行くと決めてたので私は私立のカトリック系の女子校へ行こうと決めました。同じ某付属の高校が新設されたですがあえてそちらへは行きませんでした。
なんか自制しようとする(私だけが思ってたかも?)気持ちがあったのでしようか・・・
1973年には、ステレオは4チャンネルという時代が来てなんか小さいスピーカーを付けて4チャンにしてましたね!そしてリック・ウエイクマンの「ヘンリー8世の6人の妻」やイエスの初期のLPや「イエスソングス」(3枚組)もこの時期購入しています。
あとジョージの「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」やストーンズの「山羊の頭のスープ」EL&Pの「恐怖の頭脳改革」も購入してます。
あとNHKの「ヤングミュージックショー」もしっかり観ておりました。
カトリックの女子校は規則が厳しく男女交際禁止や外出時には制服着用と凄かったですがとーぜんのコトながら無視してばれないようにしておりましたぁ。

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K君とは別々の高校とはなりましたが私の高校は前にも書いた通りカトリックのきびし〜い校則でありまして、ウチの親も(私は長女で4歳下に妹)厳しかったのでK君との交際は秘密にしていました。月に1度しか逢えなかったです。特にK君の方は1,2年は寮生活と義務付けられていましたので電話をかけるのものもままならない状態でした。女子校でしたが数人ロック好きな子とも遭遇でき、アノ当時(1973から数年)は取っていた「中日新聞」に名古屋での外タレのコンサート評やら日曜版にはカラーでロックのレコード評なぞも載っており「コクヨ ラー40」に切り抜きを貼って「ロックスクラップ」作ってました。相変わらず、K君とはそれぞれ決められたアーティストのLPをダブらないで買おうと約束してましたので高校時代はクリームや、デレク&ドミノスや、その後のソロ関係やジェフ・ベック・グループヤウイッシュボーン・アッシュやバニラ・ファッジやハンブル・パイやエリック・クラプトンがらみでデイブ・メイソンに特に夢中になりました。K君はバンドもやり始め(ベース&ヴォーカル)数歳年上の2人と「クリーム」のコピバン(バンド名はフィルモア)をしてました。スージー・クアトロが「キャン・ザ・キャン」を出したころTVでは愛川欣也&シェリーが司会の「ザ・チャレンジ」という勝ち抜きロックバンド合戦番組(日本テレビ系だと記憶)も始まり見てました。「だるま食堂」とかこの番組から確か「ジャネット」とかいうバンドがプロデビューしてました。
この頃私もエレキギターを購入しました。フェルナンデスのオレンジのストラトモデルとヤマハのYTA15と言うアンプを買いました。(フォークギターは中学の時にヤマハのを手にしてました。)しかし、バンド結成までには至らずスグ挫折してしまいましたが。
Fのコード押さえました!マスター!(爆)あとK君の方はジャック・ブルース目指していましたので早くもギブソンのSGベースを手に入れてました。そして大阪からジャニス張りに唄える女の子を見つけジャニスのコピバン「卑弥呼」を「フィルモア」と同時に始めていました。高校時代はコンサートも行けない状態が続きましたが友達にクィーンファンがいて名古屋の初来日に(1975年4月22日)みんな適当な理由を考え学校を早退して総勢4人でしたが行きましたよ!(想い出ライブ見てね!)

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さて、一応、高校時代はラジオでヒットチャートはチェックしてたものの、実際は「限られたお小遣い&お年玉&親にねだる」という手法でLP集めしてましたので買うものは吟味?して買うというコトをしておりました。クィーンは1975年の初来日(4月)のあと次年の1976年3月23日に2度目の来日を果たし、これは何故か一人で私観に行ってます。私の中ではクィーンはこの来日以降は終わってしまいましたが・・・あとやはりクラプトン繋がりでシェルターレーベルのアーティスト(レオン・ラッセルやジョー・コッカー)を聴いたり、グレートフル・デッドやクイック・シルバー・メッセンジャー・サービスやスティーブ・ミラーバンドとかのLPを買い始めてましたね。もちろん、プログレも相変わらず好きで(でもキング・クリムゾンやピンク・フロイド買うのはK君担当)しばらくイエス大好き時代が続きました。また、クリームを深く聴いていくとロバート・ジョンソンや3大キングやマディ・ウォーターズというブルースも聴かないとロックは語れないことに気づき段々とブルースの世界にも入っていきました。しかし、買う担当はほとんどK君でした、その頃は・・・レッド・ツェッペリンやディープ・パープルも聴いていましたが集めるのはK君でした・・・(バイトしてたし、彼は・・)なんかズルーイ時代が過ぎていきました。
ハナシは前後しますが1975年(昭和50年、高2)の8月5日、内田裕也プレゼンツの「ワールド・ロック・フェスティバル〜イーストランド」が名古屋でもあり、生まれて初めてのロックフェス体験でありました。イーストランドスペシャルという席で3000円、前から8列目でした。(あと2500円、2000円、1500円という席代)
その値段でジェフ・ベック・グループ、ニューヨーク・ドールズ、フェリックス・パッパラルディ・ウイズ・ジョー、ファー・イースト・ファミリー・バンド、外道、ウエスト・ロード・ブルース・バンド・、内田裕也&1815ロックン・ロール・バンドが観られたんですから(愛知県体育館)安かったナァ・・・お昼の2:30から夜9:00位までやったと記憶してます。K君と行き、ジェフ・ベックやパッパラルディが出てきた時分には
なんと肩車して貰ってステージ前まで行った覚えもある・・・なんと言ってもインドアでのフェスというのはよかった〜〜〜!!

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K君は国立高専へ行ってたので(5年間)私は名古屋の某短大へ進みました。
その頃、聴いていたのはウエスト・コースト物でイーグルス、ロギンス&メッシーナ、ポコ、バッファロー・スプリングフィールド(CSN&YはK君担当)、ブリティッシュ物はトラフィツク、フェイセス、ハンブル・パイ(フリーはK君担当)、あとジャニス、ジミ・ヘンもK君担当でしたね!そしてジョニー&エドガー・ウインター兄弟!!
第2のジェフ・ベックと騒がれた?テリー・リード、あと白人ブルースはジョン・メイオオール等々を買っていました。シュガー・ローフの「グリーン・アイ・レディ」も買ってるナァ・・そして1977年になるとコンサート通いは当たり前のようになり短大にも
少なかったけどミーハーロック少女は存在してましたんで、エアロスミス初来日の時は
某国際ホテルまで行ってコンサート前に遭遇しようと待ち伏せたりして(その程度でした・・・いわゆるグ○ピ×といわれるお方たちは存在していましたが)追っかけつうのも一応してました。ちなみに、1977年は記憶にあるのをあげると1月26日ロビン・トロワー、2月1日エアロスミス、3月28日キッス、5月26日デイブ・メイソン観に行ってます!そして7月から約1か月間、アメリカミニ語学留学(あの当時流行っていました)で「カリファルニア大学バークレー校3週間&サンフランシスコ&ハワイ」を私は親をダマクラカシテK君と出かけてしまうのでありました。(話せば長くなるんですが中学時代に不良扱いをK君は受けてたし、私の高校はカトリックの女子校で男女交際禁止、そのまま内緒でキテしまっとったんです!)とーぜん、名簿が配られるのでバレテしまいそのまま親不孝な私は機上の人となってしまいました。(あの当時、木ノ内みどり&後藤次利もアメリカへ同時期逃避行してましたね!同じ土俵でカタルのもおくがましいですが・・)
今考えると、私も思い切ったコトしたものです・・・(今は笑い話?ですが)

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