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Heavylistenerの趣味の部屋(別荘)

Hの音楽史

by ヘヴィ

ジャケットをクリックでアルバム詳細が見れます。

(1)1967〜1970

 細い記憶の糸をたどっていくと、たどり着いたのはフォーク・クルセイダースの「帰ってきたヨッパライ」なんです。もうすぐ小学校に上がる幼稚園児のころでした。でも教育に厳しい我が家では(笑)、この歌を歌うことが許されず、当時の私は何故許されなかったのか理解できず、大泣きした記憶があります(笑)。このころ海外ではビートルズがサージェント・ペパーズをリリースして音楽界に一大衝撃を与えていたことなどどこ吹く風(笑)。翌年始まった「巨人の星」のシングル・レコードを買い与えられ、歌いまくっていました。さてそれからさらに2年。テレビのニュースで「The Beatles 解散!」と流れていました。学校がえりの途中で友人とこんな会話をしたことを覚えています。
「なあ、ビートルズって解散したんだって?」
「そうみたいだね。でももったいないよね。まだまだ稼げるのに」
「そうだね。でもビートルズってどんな歌、歌ってるの?」
「しらな〜い」

(2)1971〜1972

 さて1971年になると教育に厳しい我が家では(笑)、情操教育も必要ということで書道と当時流行していたエレクトーンのうちどちらかを選ぶことになり、習字という堅苦しいものが嫌だった私は迷うことなくエレクトーンを選ぶことになります。
 で、私の洋楽との出会いはここが原点でありました。普通の人はラジオやレコードといた媒体を会して出会うわけですが、私の場合はいきなり楽譜!(笑)なんと元歌を全く知らないで、弾いていたわけですね。ここで始めてビートルズの音楽と出会うわけですが、その曲は「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」でした。理由は簡単です。コードが易しくて、メロディも比較的簡単。初心者にはもってこいというわけなんです。(今考えるとオリジナルのキーじゃないですね)
 当時のエレクトーンの教科書は、ほとんど洋楽で、まあ大体は50年代〜60年代中期くらいまでのものでした。で、私の同級生の女の子もそこに通っていまして、1年ほど早く始めたせいか、上級の曲を演奏しているわけなんですよ。そこで知ったのが「スーパー・スター」でしたね。
このあとラジオという文明との出会いで私の音楽史は大きく変わっていきます。

(3)1972後編〜1973

 さてこの頃になると学校でも歌謡曲が事あるごとに歌われるようになり、その前の年に買ってもらったラジオ番組を色々と聴くようになります。一番嵌ったのがニッポン放送日曜日の「不二家歌謡ベストテン」ですね。あの日本語が非常に堪能なロイ・ジェームス司会の番組です。この頃はやった曲は「危険なふたり/沢田研二」「心の旅/チューリップ」「学生街の喫茶店/ガロ」「わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ」「恋する夏の日/天池真理」などなど。これこそ日本の歌謡界の第1期アイドル全盛時代+ニュー・ミュージック創世期になると思います。
 実はこの「不二家歌謡ベストテン」の前に「ポップスベストテン」という洋楽チャートの番組もやっていまして、こちらの方も聴くようになります。ここで一番気に入ったのがミッシェル・ポルナレフの「愛の休日」だったんですね。似たような時期にカーペンターズの不朽の名作「イエスタディ・ワンスモア」も流行っていました。
 ちなみにまだエレクトーンは続けており、かなり腕前も上達し鍵盤楽器では難解なコードが続くビートルズの「And I Love Her」なども好んで演奏していました。さすがにこの頃になるとビートルズの曲もラジオで聴くようにはなりますが、まだアルバムを聴くといった段階ではなく、超有名シングル「Yesterday」「Let It Be」などを知るといったところでした。
 さてこのアイドル全盛期に一番好きだったのが、女性では麻丘めぐみ、男性では野口五郎といった感じで人とはかなり趣味の相違が見られたようです。(笑)(今でもその傾向は残っているようですが(笑))こんな感じで既にこの頃私の「チャート狂い」は始まっており、独自のヒットチャートなどを作っては喜んでいたお馬鹿さんでした(笑)。
(確かFM東京土曜日13時からの「歌謡ベストテン」文化放送土曜日16時からの「全国歌謡ベストテン」、
日曜日の不二家歌謡ベストテン、あともう一番組をすべて記録して勝手に
「総合チャート」なんてモノを作って喜んでいました)

(4)衝撃の出会い「フォーク」〜1974〜

 さて日本のヒット・チャートに嵌っていった私は1973年末に衝撃の出会いをします。それは井上陽水の「心もよう」でした。印象的なイントロ、歌詞などなど。既に世間では「心もよう」が収録されている『氷の世界』は当時としては記録的なセールスを上げており、ついに自分の小遣いで購入するに至ります。このレコードがシングル、アルバムを通じて最初に購入したレコードとなります。既に現在このときのレコードは存在していません。そうです、あまりに聴きすぎたためにその寿命を全うしてしまったのです。こういう傾向はその後も頻繁に見られ、CDという音楽媒体が出現するまでは、一体何枚のレコードが同じ運命をたどっていったのか(笑)。なおこのアルバムに収録されている「帰れない二人」は後に思いがけない再開があります。

学校では井上陽水を筆頭にして、かぐや姫、チューリップ、吉田卓郎、ふきのとうなどなど(チューリップや井上陽水は今から考えるとフォークじゃないですね(^^ゞ)フォーク全盛時代でした。二人に一人はフォークギターを持ち、日夜練習に励む毎日でした。ここで一般的に見られる”高い壁”が私にもやってきました。それは「Fが押さえられない」です(笑)。この壁を超えられるかどうかで、その後の人生が変わってしまうといっても過言じゃありません。当然私はギターを弾くことをあきらめ、友達がフォークの世界にのめりこんでいくのを尻目に違う世界へと目を向けるようになります。

(5)全米トップ40との出会い〜1975〜

 ギターを弾くことに挫折した私は、だんだんフォークの世界からは遠ざかっていくことになります。でも日曜日の朝の定番はまだポップスベストテン〜不二家歌謡ベストテンでした。が、明らかに洋楽の方に心を動かされるようになっていたようです。決定的だったのがポール・マッカートニー&ウイングスの「あの娘におせっかい」でした。この曲が妙に気に入った私は、まずシングル、そしてアルバムと購入することになります。ビートルズのどのアルバムよりも先にソロ活動のアルバムを買ってしまうところに、私の音楽史のおかしな面が現れていますよね。ちなみにビートルズは「赤盤」「青盤」はこの頃友人から借りて聴いてました。

さて「あの娘におせっかい」は私の音楽史にとって決定的な出会いをもたらします。それは以前より気になっていた、ラジオ関東の(現ラジオ日本)”全米トップ40”という番組です。シングルにもアルバムにもそのキャッチコピーにこう書かれていました。「全米チャート急上昇中!」
ついにある日この番組を途中からではありますが、聴くことになります。
さすがにお目当ての曲は8位と下降中でしたが、このときのトップ3はこうでした。

1.呪われた夜/イーグルス
2.アイム・ノット・イン・ラブ/10cc
3.ジャイブ・トーキン/ビージーズ

こりゃ今でもなかなかのラインナップと思いますよね。そうです、私は一発でノックアウトされてしまいました。「へ〜、洋楽って良い曲が多いジャン!」さすがにチャートの記録はまだ行っていませんが、これをきっかけに洋楽にのめりこんでいきます。1975年8月2日のことでした。
(一部記憶の確認のため資料をつかっております)

(6)アメリカン・ポップに嵌る〜1976〜

さて時代は若干前後しますが、中学入学と同時にエレクトーン教室は卒業してしまいます。理由は簡単。部活動で選んだバスケットボール部の練習でそれどころではなかったのです。卒業というより途中脱会ではありますが、講師の「あと2〜3年続ければプロになれるのに」という言葉に当時は何のためらいも無かったのです。その入部したバスケット部というのは、練習量の多さでは定評がありまして、実際私の代から数年は“全国最激戦区”と呼ばれていた千葉県で、それなりの成績を残しています。

そんな中で唯一夜を楽しめるのが土曜日でした。もう必然的に「全米トップ40」にのめりこんでしまいました。当時すごかったのはエルトン・ジョンで、チャート・アクションがまた派手なんですよね。ディスコ・ミュージックも面白いものがいっぱいあって、楽しかったですね。
(でもそのディスコ・ミュージックがその後一大転換期を迎える契機になるとはこのとき想像すらしていませんでした。)

初めてチャートを記録し始めたのがこの年の秋頃だったと記憶しています。さすがに英語の苦手な私は、曲名、アーティスト名の聞き取りには苦労しましたね。その当時のノートが現存していないので確認はできませんが、無茶苦茶な綴りだったと思います。この年の最大の話題はピーター・フランプトンのメガヒット・アルバム『カムズ・アライブ』でしょう。シングルは1位にはなりませんでしたが、アルバムは延々と1位を独走していたのをいまだによく覚えています。
こうしてアメリカン・ポップに嵌っていくわけですが、この後高校入学と同時にまた転機を迎えることになります。

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