ヨナとクジラ
ヨナは、神の言葉を伝える予言者であった。ある日、神は、ヨナにアッシリアの首都ニネべという町へ行けと命じた。 止しゃーいいのにヨナは、ニネベとは正反対にあるタルシシュ行きの船に乗っちまったのであった。神は怒ったねー。で、コンニャロってんで嵐を起こしたもんだから船はおお揺れ。 船乗りは、船乗りで、この嵐はヨナのせいだと云ってヨナを海の中に放り込んでしまっちゃったんだから、ヨナはついてない。 さらに不運なことに、海の中には巨大な魚(クジラ)が待っていて、ガブリとばかりヨナを呑み込んでしまった。「あー神様ー」である。実はこのクジラも神のやったことで、けっこう神も執念深いのだ。こういうタイプに逆らってはならないね。 そいでヨナは、クジラの腹の内で三日三晩考えた末、「私が悪うございました」と悔い改めて、ニネベに行ったのであった。ま、普通ならクジラの腹の内なんてところは一時間もいれば十分で、すぐ悔い改めるだろうけど、ヨナはヨナで結構抵抗するタイプの男である。 とまぁ、この話を元に描いた絵が沢山あって、いずれも似たようなクジラのデフォルメの仕方であるから、どうやら以後のクジラの絵に影響しているように思えてならないのである。 |
下の絵と同時代のエッチング
作者は異なるけれど、クジラの描写が非常によく似ています。
昔、新世界への探検家たちは、こうして海図にクジラの存在を記録していたんですね。
上2枚は、いずれも1564年Moyneが長い船旅の後描いたとされる絵ですが、
このクジラも似たような海の怪物です。左は今にも船を襲う気配が感じられますし、
右は、その大きさが当時の船乗りたちを恐がらせるに充分な怪物に描かれています。
当時の人たちはこれを見て、「すげえや、こんなのがいるんだよなぁ、海には」
なんて云ってたことでしょうね。
面白いのは、噴気孔から滝のように流れる二つの水が、ヒゲクジラの仲間であったことを
証明し、記録していることです。噴気が二本上っていたのを見たのかも知れません。
この頃の日本は、永禄7年、室町後期、毛利元就が中国を平定したばかり、
ポルトガル船がマカオを根拠地に日本出入りし、日本の銀で、
香料を買って帰国していた、そんな時代のことなのです。
ストランディングして日干しになったマッコウクジラ。
右に三人乗ったボートが見えます。巨大なクジラですよね。
巨大なストランディングのクジラを描いたこの手の絵がたくさん
ロンドンの古書店や画廊で売られています。
18世紀後半から19世紀のアメリカは、アメリカ式捕鯨の時代でした。
石油が発見されるまで、当時の捕鯨産業は、国の根幹をなす大産業で、
それというのも、夜を照らす全ての灯りは、このクジラという生き物から供給さ
れていたのだから、そのウエイトは想像に難くありません。
油を採るのが目的だから、鯨種は主にマッコウクジラです。
風任せの帆船を駆って、洋の東西を駆けめぐり、クジラがいると、ボートを
降ろし、オールを漕いでクジラに近づき、ロープの付いた銛を打ち込みます。
巨大なクジラの時は、しばしばボートが海中に引きずり込まれることもあった
と記録されています。
網で絡め、銛を打ち、弱ってから縛り上げる日本の網取り式捕鯨とは、
少々趣を異にします。
19世紀になると随分リアルな絵が登場してきます。
愛嬌のあるデフォルメがいい絵ですよね。
「モビィ・ディック(白鯨)」の初版 1851年 勿論、僕のものではありません(^_^)(-_!) この偉大な鯨文学も、出版当初は、悪魔文学と 云われて、悪評が高かったと云われています。 |
ハーマン・メルヴィル | 挿し絵 |
1841年、1月、ハーマン・メルビルは、捕鯨船員になって、ニューベッドフォードから船に乗ります。 同じ年の同じ月(旧暦正月)土佐の漁師中浜万次郎少年(14歳)は、土佐沖で流され鳥島に漂着したのです。 そこを、これまた同じニューベッドフォードを母港とするジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長に助けられ、捕鯨船員となります。ジョン・万の誕生です。 彼は、ホイットフィールド船長の助力により正規の航海術を学び、多くの仕事を経ながら10年後の1851年、ハワイでボートを購入し帰国(沖縄に上陸)しました。 奇しくもその同じ年の1851年に、メルビルが「白鯨」を発表したのです。 メルビルと、ジョン・万が逢ったという記録は、世界中の研究者が探しているのですが、見つかっていません。 | |||
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漂流について
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この図は、セミクジラです。
メルビルの時代、1800年代は、アメリカ式捕鯨の全盛期でした。
世界中に船を出し、主にマッコウクジラの油を樽に詰めて持ち帰っていたのです。
ジャパングランドと呼ばれる三陸沖にはマッコウクジラが沢山いて、水や生鮮食品の
補給が必須な時代でもありました。そのため、鎖国中の日本にペルーが開国を
迫って今日に至ったのは、みなさん既にご存じの通りです。
銛を打つ船は、構造上クジラには弱いものでした。そのため
よくこんなことが起きたのです。
捕ったクジラは、数隻のボートで本船まで運びます。 外舷からジャンプ台のような板を出して、その上で、長刀をふるいながら皮を剥きます。 この絵は、シロナガスクジラかナガスクジラでしょう。皮をクレーンで引き上げながら 切り裂いていますが、マッコウクジラ場合は、クジラの尻尾をつり下げ、吊し裂きを したりもします。剥いだ皮は、釜で煮て油を採り、樽に詰めます。 「白鯨」によると、そうした解体作業中、下を見ると海中が黒くなるほど鮫が集まってくる ことがあるそうで、油で足を滑らせたら、それは死ぬときだったようです。 |
命の危険と隣り合わせた捕鯨船の生活ですが、風のない凪の日や、クジラのいない日などに、
乗組員は、マッコウクジラの歯に、針で絵を彫り色を差した置物を造って、時を過ごしました。
その置物はスクリムショウと呼ばれていて、ステッキや、パイカッターなどもあります。
亡くなったジョン・F・ケネディはスクリムショウのコレクターとしても有名な人で、
ホワイトハウスには常時展示していたそうです。
ハワイのマウイ島では、マンモスの牙を使ったスクリムショウや、スクリムショウを彫る
キットなどを土産として売ってもいます。
ハワイは、そんな捕鯨船の寄港地でした。船の修理や鯨油を入れる樽の修理などを
していたのです。これは当時、ホノルルにあった樽屋さんの新聞広告です。
ちなみに、ジョン万もニューベツドフォードで樽屋の修行をしています。
ハワイ同様、太平洋の島々は、捕鯨船の食料搭載や水の補給、情報の交換、本国から
託された郵便物の交換場所であったりもしました。久しぶりに逢う海の仲間同士が、
ラム酒でパーティを開いたりするわけで、そんな交歓会のことをグアムと呼んだそうで、
観光地グアムは、そんな島だったと「ジョン万エンケレセ」の著者
永国淳哉さんは書いています。
ホノルルのビショップ博物館にある、当時の資料展示です。
※ 以上のようなアメリカ式捕鯨の事実を取り挙げて、日本の水産庁や、捕鯨関係者は、「アメリカもクジラを捕っていたのに、日本に獲るなというのはけしからん」と、これを捕鯨推進の論拠の一つとしてプロパガンダ展開をしてきました。
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当時の博物館か、見せ物小屋のようです。骨は、セミクジラか近縁種のものです。