ヤな人に逢ったことがない
      2001.07.13


2005.12.4更新

1 田中光常さん 11 竹田津実さん 21 おじさん達の鳥見隊
2 楠田枝里子さん 12 ロジャー・ペインさんと
ポール・ウインターさん
22 思い出せないトイレットペーパーな人
3 母島民宿の奥さん 13 モーリー・バケットさん 23 林家木久蔵さん
4 荻野目慶子さん 14 中国のおじいさん 24 灰谷健次郎さん
5 ボブ・タルボットさん 15 徳田章さん
6 手塚治虫さん 16 喜納昌吉さん
7 五台山竹林寺和尚さん 17 富永一朗さん
8 南伸坊さん 18 仲間たち
9 奥本大三郎さん 19 青柳裕介さん
10 南美希子さん 20 横山隆一さん




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       ごにん目

ボブ・タルボットさん

「なに?ボブを知らなきゃクジラ好きのもぐりだよ」なーんて言われるのが、世界で最もクジラを美しく
撮る写真家であり、映像作家のボブ・タルボットさんなのです。
たぶん彼の、夕暮れの海面すれすれからのアングルで、目一杯横に広がったザトウクジラの尻尾から、
タラタラとしずくがたれ落ちる名作ポスターは、誰でも一度は見たことがある筈です。

3年前、「鯨者連」主宰のホエールウォッチング展を銀座ラ・ポーラでやった時訪ねてくれたのですが、
その年は京都でIWC総会があり、多くのクジラ関係者が日本を訪れていて、捕鯨論争が盛んに戦わさ
れていました。
ボブさんは、写真によってクジラ保護を訴えてたんですね。つまりクジラのフォトガードマン。

「鯨者連」も「今クジラを捕るべきではない」と言うスタンスだったので、多くの外国メディアや、
クジラ仲間が訪ねてくれました。

ニュージランド・カイコウラから来ていたリチャード・オリバーさんは、ボブがいると聞くと、
「逢わせて逢わせて」と大騒ぎ。それほど人気の人なんですね。
 ボブ・タルポットさんに、サイン入りで頂戴したビデオがあまりにも美しいので、みんなに見せて やろうと思ったら、ガッチガチのコピーガードが入っていました。ビデオガードマンでもありました。
 このビデオはどんなクジラのビデオより素晴らしいのでお奨めです。たぶんクレスナーというところに 電話すると、入手法が判ると思います。タイトルは「タルポットのドルフィン アンド オルカ」です。







       よにん目

荻野目 慶子さん
夜、ホテルのマッサージを頼むと、年輩の方が現れ「今、女優さんだという人を治療してきたけど、 小さくて痩せた女性なのにカチカチにこってましたよ、なにしてたんでしょう」
翌日、荻野目さんのマネジャーにその話をして「大変ですね」というと「絶対本人に大変だとか言わ ないで下さい」と言われました。
どうやら台詞のない、自分のパーソナリティを出さなくてはならない仕事は初めてで、疲れているとの ことでした。
岡山から瀬戸内海を渡って、高知まで旅をするというNHKの番組撮影での話です。
そのすぐ後、蜷川さん演出の「ハムレット」の招待状を貰い、彼女の凄まじい迫力を目の当たりにして、 普段着が実に柔和で人なつこい魅力的なお嬢さんなのに、これは凄い女優だと、舌を巻いたものでした。
 その後も何度が旅先から手紙を貰ったのですが、どこか、おじさんに相談したい、そんな感じのする内 容でした。
 しばらくして、彼女の辛い出来事が報道されたのでありました。
 きっとこの歳月が彼女を一まわりも二まわりも大きくしていることでしょう。
 またあのド迫力の演技を見せて貰いたいものですな。ね。


















       さんにん目

母島民宿のおくさん

1988年、編集者、ナチュラリスト、医師、地球の友、フランスのテレビ局、朝毎共同通信の記者など、
約50名の寄せ集まり集団「鯨者連」は、小笠原で日本初のホエールウォッチングツアーを実施しました。
 クジラは食うものではない、生きている姿を見るものだというコンセプトで集まった人たちが大挙して
小笠原に行くというのだから、捕鯨推進を国の方針としている水産庁は非常に警戒し、行政を通じて島に圧力 をかけたようです。
島から 突然、来てくれるな、という連絡が入ったりと、説得作業が大変でした。
 しかし、いざクジラを見に出ると、誰もがただクジラ好きのおじさんおばさんだと言うことが判り、 一安心。
 民宿の奥さんが笑いながら、実はね「鯨肉と亀の肉は決して出してはならない」というおふれが出てたんで すよと、
島がナーバスになっていたことを示唆する言葉がありました。 最後の日、亀の肉を出してくれ、これを食べる者あり、食べない者ありの「鯨者連」でありました。
 かくしてこの時発信された膨大な報道量を境に、日本人のクジラに対する考え方が180度転換することとなったのであります。
 後ろは電通の田岡さん。









        

         ふたり目

個展に来てくれた楠田枝里子さん
楠田枝里子さんは、日本テレビのアナウンサーをしている頃、杉浦直樹さん(後に久米宏さん)とともに 「おしゃれ」という番組のホステスをしていまた。なんでも私は漫画家中での最多出場者だそうで、ロケ など何度か一緒しました。深夜、ロケバスで我が家に迎えに来てくれた時、「あっ、アイロンのコンセント抜くの忘れてた」と、 四ツ谷の自宅に引き返したことなどありました。で、自宅から息せき切って「抜いてた、抜いてた」と車に 乗り込んで・・・・・
角川の「野性時代」の編集者と、楠田さんの顔をシゲシゲ見ながら、「俺達の顔を作った神様と同じ 神様が作ったとは思えないな」
といったもんです。バグなしのお顔ですな。
バグと言えば「野鳥のデータの整理なんかは、パソコンが最も得意とするところです」とパソコンを勧めて くれたのは、楠田さんで、このホームページがあるのも元は楠田さんによるものと言えそうです。PC-8001 とFM8の時代、BASICの時代でした。
その後、私がパソコンを勧めて伝授した友人の医師鮎沢さんと先輩の漫画家福地泡介さんが亡くなり、私にパ ソコンを教わると死ぬというジンクスが出来てしまいました。
 今、これを呼んで頂いている方、お体には気を付けて。










       ひとり目

アサヒペンタックスPR誌のため対談の田中光常さん

 田中光常さんは日本の動物写真の創設者と言っていい方である。
 最近の動物写真がともすれば、凄惨なカットや、ムードに走りがちな作品の多い内で、田中さんの作品は、動物たちを暖かく、優しい目でとらえ続けている。
 なんといっても作品に気品がある。
 田中光常さんは、土佐藩を脱藩し、中岡慎太朗の陸援隊で活躍した田中光顕伯爵の孫にあたる。一説には末息だとも言われているが、個人的なことなので、聞くのがためらわれて聞けずにいる。
 田中光顕伯爵は、中岡慎太郎の陸援隊副隊長で、龍馬と中岡慎太朗が暗殺された時、いち早く駆けつけ、検死に立ち会った人でもある。そんなこともあって高知市の桂浜に立つ坂本龍馬像建立に尽力し、碑文は田中光顕伯爵のものである。
 そのせいか田中光常さんにお目にかかると、どうも田中さんをレンズにしてピントグラスに龍馬や慎太朗の像が見えてきてならない。どどきするのである。
 田中光常さんの作品の気品や、「格」はそんな背景から醸し出されているのかもしれないと思ったりもするが、田中さんは物腰の柔らかいジェントルマンだから、文章に「文体」があるように写真の「写体」は人そのものだろう。
 最近甘くなった岩合光昭氏の作品を人は、「センスなければアマチュア写真」と称しているようだが、多忙のため感性が疲弊したのか、それとも自らをコントロール出来ないのか、ともかく何にもなくなってしまうから恐ろしい。ところが品性や、「格」なんてものは、消しようもないものである。
 田中さんとは、いつもひょんな時にお目にかかる。ある時は漫画集団の先輩、富田英三さんの葬式で、ある時はスリランカから乗った飛行機で、アフリカ帰りの田中さんに呼び止められ、一昨年は、高知の大方町でホエールワッチング国際会議の前夜祭で、と。田中光常さんは、今一番お目にかかってゆっくり話を聞かせていただきたい方である。

田中光顕伯爵は1939年3月8日、96歳でお亡くなりになっている。
 その4日後、私が生まれた。