イラスト3
長崎での拘留は十ヶ月に及び、横文字の書物、拳銃などは没収。砂金や米ドルは、日本のかねに交換された。 1852年8月25日、高知城下に入る。 |
1853年、ペリー提督来る。 |
1853年7月8日、ペリーは久里浜沖に投錨。 14日、久里浜に上陸。 |
ペリーは、将軍へのプレゼントを綿密に選ばせ、ウエブスター辞書、オーデュボンの鳥類図鑑、1/4大の蒸気機関車、農機具、カメラ、電信装置、等々 |
1853年、7月25日、幕府は万次郎を呼ぶ。 10月14日、老中首座阿部正弘にアメリカ事情を聞かれる。 翌、54年、ペリー再来日。 3月31日、日米和親条約締結 |
1860年2月10日、咸臨丸は浦賀を出港。 道中、船長勝海舟、木村摂津守、福沢諭吉は船酔いで寝たきり、米士官と万次郎が実質上の船長副船長としてサンフランシスコまで操縦した。 、 |
3月18日、サンフランシスコ、インターナショナルホテルで、市長主催の歓迎会が。 たまたまカリフォルニア州知事が現れて、日本人は、大名が一人で出歩くことに仰天した。 |
1860年5月8日、サンフランシスコ出港。ハワイに。ハワイで木村摂津守はカメハメハ四世に謁見。万次郎は通訳する。 士分に取り立てられていた万次郎は、ハワイから、ホイットフィールド船長にアメリカに来ていたことなど手紙を書く。 |
アメリカから帰国した万次郎は、数ヶ月後に軍艦繰練所教授を免職された。 横浜で外国船を尋ねたことが理由だった。 |
明治3年(1870)、政府は普仏戦争視察のため渡米。その時万次郎も加わった。 サンフランシスコに着いた万次郎は、そこから大陸横断鉄道でシカゴに渡り、ホイットフイールド船長宅を尋ねた。 なんと21年ぶりの再会だった |
1886年2月14日、万次郎を鳥島から救い、教育を受けさせたホイットフィールド船長死。 1898年11月12日、71才で万次郎もその生涯を終えた。 |
万次郎の71年の生涯のうち、咸臨丸での渡米以降は恵まれていないと言われている。 しかし、アメリカではその後も末永くジョン万次郎がペリーの日本回航以降に大きな役割を果たしたことを顕彰し続けた。 |