イラスト2

1820捕鯨船エセックスは、巨大なマッコウクジラに襲われ沈没した。

船長は、ハワイで万次郎一人を連れ、再び航海に出た。ここで名前をジョンとする。ジョンは初めて仲間と別れ別れに生活することになる。

1842年メルヴィルは、2ヶ月の南海の孤島エイミオ生活を離れて11月19日、ハワイに向かう。
その十日後の29日、ジョン万次郎の乗ったジョン・ハウランドはエイミオに入港する。
記録上は、この二人が逢ったという記録は、見つかっていない。

ジョンハウランド号、ニューベッドフォードに帰港する。こには船長宅もある。

フェアヘブンの町と教会

1843年、マンハッタン号は鳥島で漂流民を救 助し、日本に送り届けるも役人は上陸したら殺すと身振りで示した。

1846年6月3日、捕鯨船ローレンス号は、遭難、10間漂流の後択捉島に上陸。すぐに捉えられ、松前、長崎に護送され踏み絵など残酷な仕打ちを受ける。

クジラ銛とロープ、垢汲みの手桶、シーナイフ

万次郎の乗ったフランケリン号の船長は、長い航海で心を病み、軍服を着て豚を撲殺したりするようになる。

一方ハワイに残されていた、筆之丞、五右衛門、重助、寅右衛門のうち、重助は弘化3年(1846)死亡。筆之丞、五右衛門は捕鯨船スロロデ号に乗る。寅右衛門は、どこで死んでも同じとハワイに残る。

捕鯨船スロロデ号に乗り込んでいた筆之丞と五右衛門は、伝蔵(フデノジョウ→デノジョウ→デンゾウ)とギモ(ゴエモン→ギエモン→ギモ)と呼び名を替えていた。
ニューギニアの途中で「裸島」に寄る。

ラナウドという男が、日本に上陸し、日本語を学び、通訳になろうと捕鯨船に乗り組み蝦夷地で下船した。

1848年、上陸した島は利尻で、アイヌのやっかいになる。やがて捉えられ、宗谷番所、松前、長崎に送られる。長崎に拘留されている間、森山栄之助に英語を教えたりしていた。

シテギリシ号に乗った万次郎は、1850年ゴールドラッシュに湧くカリフォルニア、サンフランシスコに入港。二千隻もの船が係留されていたという。
捕鯨船の乗組員もこの港に入ると挙って脱走して金山に向かった。

金山で650ドルを手に入れた万次郎は、メキシコからの便船でハワイに。伝蔵、五右衛門、寅右衛門に逢い、帰国を促すが、寅右衛門は帰国を断る。

1851年、三人は、沖縄に上陸する。
土佐を出てから実に10年経っていた。琉球での取り調べは7ヶ月に及んだ。

八月二十七日、薩摩に送られ、捕鯨船の模型を作らされたり、様々な情報収集される。島津斉彬にも酒食を振る舞われ渡米中の話を聞かれる。
薩摩拘留は48日。

次に長崎に送られ、長崎奉行から白州で直々に取り調べを受ける。
ウエブスター辞書を始め、石鹸に至るまで沢山のアメリカものを持ち帰ったが没収されてはいない。