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この日は、十数年前新宿ルミネでやった「集団キャラクター展」の絵が残っていて、それを来年高知に出来る横山隆一記念館に集団が寄贈することになり、いったん横山邸に運び込むのを多田ヒロシさんが立ち会った。 僕は何のために行ったのか覚えてないけど、この時、横山さんは切り紙をやっていたのだつた。 黒い羅紗紙をネイルカッターのような先の鋭い小さなハサミでスイスイと、 それもそのスイスイは、一輪車に乗ったピエロあり、笑い転げる男女ありで、数百という総て異なった図柄をフリーハンドでスイスイなのだから、どうみてもただの人ではない。僕も多田さんも仰天した。 多分、林家正楽さんも及ばないだろう、とそう思ったものであった。 先ず、身体を揺ることはない(^0^) これだけで「食える」。 にもかかわらず僕はそれまで噂では聞いてたものの、見たことがなかったのだから、横山さんの中ではきっと小さな存在だったのかも知れない。彫刻とか、ともかく多才でいずれも天才的なうまさの方であった。 その切り紙を二枚頂いた。大切に読みかけのスタインベック「コルテスの海」 に挟んで持ち帰った。 この日が横山隆一という日本が産んだアーチストとの最後になってしまったのだだった。 |
青柳裕介さん
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「アジア漫画会議」のパーティで。
左から青柳さん、やなせたかしさん
この時、アジアの漫画家に対して失礼があった、と酔って
担当者たちに大声で怒鳴り散らしたのでした。
いいヤツ。
昔、ヤングコミックという雑誌で、草いきれのする田圃の中にポツンと建つ 節穴だらけの朽ちた板塀に囲まれた「便所」で用を足す農家の女を描いた劇画を 見たことがあります。 むんむんと肥溜めの臭いがする劇画でした。 なにか若き生命をそのまま原稿用紙に叩きつけたような強い表現力を持つ作品でした。 作者は青柳裕介という人で、編集者に聞くと高知の人だというのです。 僕は、劇画など一二を除いて全く認めませんが、その作品を描いたのが土佐の 男だと聞いた時、如何にも土佐っぽいと思ったものでした。 その作品が魅力的だったのは、一般に劇画は「商品」なのに、ガロなどのように「作品」 だつたからでした。 後に、小学館で「商品」を描くようになり、「土佐の一本釣り」など大変な人気だそうで、若い頃あれだけ表現力のある作品を描いていた人だから蓋し当然でしょう。 青柳さんは劇画を描いていますがご本人は決して「商人」ではありませんでした。 いごっそで「絵に描いたように土佐している」人だつたから、テレビやイベントの関係者が危なくて生では出演してもらえない、とのたまうほどでした。 昨年(2000)逢った時、「横山隆一さん(入退院を繰り返していた)と、やなせたかしさん(入院中だった)と俺の三人の内で俺が一番先に死ぬよ」と寂しそうに笑っていました。 彼に一番似合わないセリフに、ハッとしたものでした。 彼は珍しい病気を患っていたのでした。 僕は、青柳さんの土佐っぽいところ、時に、切れやすく、やんちゃなところが可愛いくて、大好きでしたが、今年(2001)8月9日、本当に一番先に逝ってしまいました。無念。 散る漫画も残る漫画も散る漫画です。 |
手塚治虫さん
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手塚治虫さん 江帆さん(中国の漫画家) と北京動物園にトキを見に行った
手塚さんが亡くなって多くの手塚さんを紹介する文章が出ました。そんな中に出てこなかったし、私も書いたことがない話を紹介します。
日中国交が回復して間もない頃、中国美術家協会から日本の漫画家に招待があり、手塚さんから「つきあってよ」と電話ありました。 まだ中国の町中を日本人が歩くと大勢人だかりが出来る頃です。 ある女流作家が招待され、「風邪をひいた」とホテルの部屋で同行の仲間に言ったら、翌日、部屋に風邪薬がとどいていた、などという話があり、必ず盗聴していると言われていた時代です。 その頃手塚さんのアトムはあちらでアニメになっていて、大人気。「孫悟空は、まったく評判にならなかったよ。なにせ本場だから見てられないんだろう」なんて話の中で、なにかちょっと中国に批判的な言葉が出たんですね。 そこですかさず私が天井に向かって「今言ったのは手塚さんですからね、岩本じゃないよー」と言ったら。 手塚さん大慌て。 そして大まじめに「手塚じゃないですよ。岩本きゅうそくですよ」と天井に向かって叫んだものです。 |
富永一朗さん
富永 一朗さん(中国の軟座車で)
驚いたことがある。 以前、亡くなったおおば比呂司さんたちと佐賀県に招かれた時、ゴルフをしない富永さんと僕は唐津焼きの窯元に行くことになった。 立派な登窯で、この窯は、渋色の釉薬を使って個性的な焼き物が出来上がる 素人に焼き物の絵付けは難しい。筆は全く腰がなく、たっぷりしみこませたクスリをまるで流すように描かなくてはならないので、筆の腰を使って勢いで描く習慣のある漫画描きには全く手に負えない代物である。 僕が四苦八苦しながらうまくいかなくて汗をかいている側で、富永さんはまるでペンで書くようにスラスラとチンコロ姐ちゃんを描いていた。 「うまいなー」 「俺、筆はうまいんだよ」と云いながら話してくれたのは。 戦後間もなく、ニュース映画のタイトルに、清水崑さんが吉田首相の似顔絵を描くところをコマ落としで撮影したものを使っていて、映画全盛時代だから、日本中の人たちがこれを見ていた。 見る者には早送りアニメでパッパッパッと吉田総理の似顔ができあがるように見えるわけだ。 それを見ていた九州大分の富永漫画青年は、漫画家になるにはあんなに早く筆で描けなくてはならないと思いこみ、清水崑さんのように筆を使って、それもコマ落としのスピードで描く猛練習したんだそうである。 うまい筈だ。 富永さんばかりではない。当時、地方の漫画家を志す青少年は、知識も情報もないから、スクリーントーンを知らなくて、あの細かい点や模様を全部手で描いたとか、泣くに泣けない話がゴマンとあるのだ。 富永さんは、作品も生き方も決して低きに流れず常に志が高い。共に低い者をとても嫌う。見習うべき先輩である。 色鉛筆を塗り重ねて微妙な色彩を出した富永ナンセンスは絶品で、高い品格を持つ作品集だが、自費出版だから多くの人の目に触れることが出来ない。これは残念至極である。 |