じゅうくにんめ

青柳裕介さん
「アジア漫画会議」のパーティで。左から青柳さん、やなせたかしさん
この時、アジアの漫画家に対して失礼があった、と酔って
担当者たちに大声で怒鳴り散らしたのでした。いいヤツ。
 昔、ヤングコミックという雑誌で、草いきれのする田圃の中にポツンと建つ
節穴だらけの朽ちた板塀に囲まれた「便所」で用を足す農家の女を描いた劇画を見たことがあります。
 むんむんと肥溜めの臭いがする劇画でした。
 なにか若き生命をそのまま原稿用紙に叩きつけたような強い表現力を持つ作品でした。
 作者は青柳裕介という人で、編集者に聞くと高知の人だというのです。
 僕は、劇画など一二を除いて全く認めませんが、その作品を描いたのが土佐の男だと聞いた時、如何にも土佐っぽいと思ったものでした。
 その作品が魅力的だったのは、一般に劇画は「商品」なのに比しこの作品は、ガロなどのように「作品」だつたからでした。
 後に、小学館で「商品」を描くようになり、「土佐の一本釣り」など大変な人気だそうで、若い頃あれだけ表現力のある作品を描いていた人だから蓋し当然でしょう。
 青柳さんは劇画を描いていますがご本人は決して「商人」ではありませんでした。
 いごっそで「絵に描いたように『土佐』している」人だったから、テレビやイベントの関係者が危なくて生では出演してもらえない、とのたまうほどでした。
 昨年(2000)逢った時、「横山隆一さん(入退院を繰り返していた)と、やなせたかしさん(入院中だった)と俺の三人の内で俺が一番先に死ぬよ」と寂しそうに笑っていました。
彼に一番似合わないセリフに、ハッとしたものでした。
 彼は珍しい病気を患っていたのでした。
 僕は、青柳さんの土佐っぽいところ、時に、切れやすく、やんちゃなところが可愛いくて、大好きでしたが、今年(2001)8月9日、本当に一番先に逝ってしまいました。無念。
 散る漫画も残る漫画も散る漫画です。








じゅうはちにんめ                 99/02/

知床羅臼・鷲見る仲間たち
仲間数十人で冬の知床に鷲を見に行った。
オジロワシとオオワシがわんさかいる場所である。シマフクロウもいる場所である。
そんなことがあつて人が大勢来るようになり、羅臼のホテルでは鷲見の客のために露天風呂まで作ってしまったのであった。
寒さのためにフィルムがパリパリ折れるような極寒の地だから、冷え切った身体を暖めるのには実に有り難い。なにせ温泉に浸かると、瞬時にして濡れた髪の毛からつららが垂れ下がるほどの寒さである。
しかし、この露天風呂は、入ったまま向かいの山にオオワシがとまっているのが見えるという「鷲見の湯」とでも名付けたいスバラシイ場所にあるのだ。
写真は右から、神戸の外科医鳥山紀彦さん、漫画家の古川タクさん、某社の社長、内科医の故鮎沢徹さん、僕。鮎沢さんの前の女性は夫人久美子さん。隣の男は痴漢さんらしい。
ここは混浴ではないから、女湯に男が入れば痴漢になるぞ、と彼女が男湯に来ることにした。

まぁのんべぇの医者や漫画家がそろえば、アフターバードウォッチングはおとなしく収まるわけがない。二人の医者と漫画家は、同行の女性を襖の上に載せ、シリツごっこが始まる。
なにせ本物の医者二人のオイシャサンごつこだから、専門的で高度なオイシャサンごつこである。そこに馬鹿馬鹿しいことならお任せの創造性豊かな漫画家が入るのだから人間ドラマが盛り上がるのは必定である。
またあるときは、羅臼の夜、胸までスケソダラに浸かって網を外している漁師さんから直接スケソを売って貰いに行き、「二時間ばかり手伝えよ、そしたらやるよ」など言われながら一箱ぶん分けて貰った。しかし、凍えるような寒さの中、普段ペンやメスより重い物を持ったことのない連中だから、一メートルも運ぶと手を暖め、また一メートル歩く、なーんてコトをしながら橋のたもとにある「高砂食堂」に運び込み、主の高橋さんの奥さんに醤油漬けの作り方を教わる。つまり手作りのスケソの醤油漬けを土産にして帰るバードウォッチングツアーなのであった。
こんなツアーをやっていたのだから、噂は野鳥界全体に広がって、希望者が増えすぎたため、真面目にツアーをしている野鳥の会などからクレームがついてきたので、止めることにした。
なにせ遊びは突発的だから最初から期待されると困るのである。







じゅうしちにん目                       99/01


富永 一朗さん(中国の軟座車で)

 驚いたことがある。
 以前、亡くなったおおば比呂司さんたちと佐賀県に招かれた時、ゴルフをしない富永さんと僕は唐津焼きの窯元に行くことになった。
 立派な登窯で、この窯は、渋色の釉薬を使って個性的な焼き物が出来上がる
 素人に焼き物の絵付けは難しい。筆は全く腰がなく、たっぷりしみこませたクスリをまるで流すように描かなくてはならないので、筆の腰を使って勢いで描く習慣のある漫画描きには全く手に負えない代物である。
 僕が四苦八苦しながらうまくいかなくて汗をかいている側で、富永さんはまるでペンで書くようにスラスラとチンコロ姐ちゃんを描いていた。
「うまいなー」
「俺、筆はうまいんだよ」と云いながら話してくれたのは。
 戦後間もなく、ニュース映画のタイトルに、清水崑さんが吉田首相の似顔絵を描くところをコマ落としで撮影したものを使っていて、映画全盛時代だから、日本中の人たちがこれを見ていた。
見る者には早送りアニメでパッパッパッと吉田総理の似顔ができあがるように見えるわけだ。
 それを見ていた九州大分の富永漫画青年は、漫画家になるにはあんなに早く筆で描けなくてはならないと思いこみ、清水崑さんのように筆を使って、それもコマ落としのスピードで描く猛練習したんだそうである。
 うまい筈だ。
 富永さんばかりではない。当時、地方の漫画家を志す青少年は、知識も情報もないから、スクリーントーンを知らなくて、あの細かい点や模様を全部手で描いたとか、泣くに泣けない話がゴマンとあるのだ。
 富永さんは、作品も生き方も決して低きに流れず常に志が高い。共に低い者をとても嫌う。見習うべき先輩である。
 色鉛筆を塗り重ねて微妙な色彩を出した富永ナンセンスは絶品で、高い品格を持つ作品集だが、自費出版だから多くの人の目に触れることが出来ない。これは残念至極である。


         じゅうろくにん目                    98/12

喜納 昌吉さん

 那覇に行く船にの内で某誌編集長の奥さんという人から声をかけられた。
 彼女は喜納昌吉さんと一緒に仕事をしたことがあるそうで、喜納さんの熱烈なファン、いや喜納教の信奉者と云った方が良さそうな人である。
 僕と同行しているアシスタントの女性が彼女に喜納さんについて何か尋ねたら「あなたそんなことも知らないで喜納さんに会いに行くつもり」と強い調子で云われたそうだから、その「信仰」ぶりが伺える。
 実は、僕は喜納さんの名前さえ知らなかったし、テレビCFで聞いた曲が喜納さんのものであることも知らなかったのだから、そのことが彼女に知られなくてよかったと、己の幸運に感謝したのであった。
 それにしても、喜納さんは、彼女がかくも神格化するような存在であることだけはっきりしたのであった。
 那覇に着くとレポーター女史は、書店に飛んでゆき喜納さんの資料を漁った。
 僕はひとりでソーキそばを食った。
 約束の時間に喜納さんのライブハウスに行くと、ソファに座った喜納さんと、緊張した顔のスタッフが待ちかまえていた。聞くところによると、喜納さんは鹿児島から島伝いにコンサートをしながら帰ってきて、疲れているところを無理にインタビューをお願いしてたのだそうであった。
 テーマは、環境問題。
 ソファに深く座った喜納さんは、唱えるように朗々と語り始めた。
 とてもこちらが口を挟める「環境」ではない。
 「ちょっと待ってよ、あなたは僕の質問に答えて無いじゃないですか」  と喜納さんを遮った瞬間、周囲から何かが引いて、スタッフの顔から血の気が失せるのが判った。
 喜納さん少し不快そうな顔をして、座り直し、グッと身を乗り出した。
 妙な雰囲気のまま、ライブハウスの客席で、喜納さんとアシスタントさんと三人でコンサートを聞いているロングの絵を撮ることになって、何か話をしていろと云われる。  喧噪の内で、喜納さんが云った。
 「僕は自分の思ったことしか云えないし、きれい事は云えないんですよ」
 いわば、彼がカチンと来たことで全員の雰囲気がおかしくなったことを気にしている発言だ。
 僕は予想通り、この人は繊細な人だな、そう思った。 ああいいヤツだなあ。そう思ったのである。
 実は僕は、喜納さんの本音を聞き出したいので最初から少し厳しいことを聞くつもりでいたのだった。それはアシスタントさんには事前に云ってあった。
 僕は時々こういう姑息なインタビューをする。品のないインタビューである。
 喜納さんを不快にしたのは僕なのだから、そのことを密かに恥じた。
 「俺だってそうだよ」
 「すぐ判りましたよ。僕は、子供の頃から岩本さんのように云ってくれる人がいなかったんですよ」
 なるほど、と思う。
 「僕ははっきり言ってくれる人が欲しかったんです。僕の兄さんになって下さいよ」
 喜納さんは、そんな意味のことを云った。
 「おいおい」
 正確に云うと、喜納さんは、そう云ってやや当惑したような顔を見せた。
 なにか自分をここまで許してしまった「あっ、云っちゃった」そんな顔であった。
 そんなことがあって、その後の舞台の上でのトークショウは、一転して乗りに乗って進んだ。喜納さんの少年時代の話、「こんなコト云っていいのかなー」と云いながらの公に出来ない話がバンバン飛び出す「素」の喜納さんであった。
 客席の後ろでディレクターが両腕を交差して「止めろ、止めろ」とサインしている。
 「いいよ、やろう、やろう」
 ONAIR時、勿論大幅にカットされていた(^-^)。
 しかし、それ以後も喜納さんのあんな「素」の映像を見たことがない。 察するに、多くのテレビのディレクターは、喜納さんの「素」はどうでもいいのだろう。抽象的で寓話を交える喜納さんの「法話」「喜納節」を求めているのだ。
 「法話」が多くの人を魅了しているのだから、喜納さんの「武田鉄矢」は困るのである。
  喜納さんは、常人に見えないものが見えている。感じられないものを感じている。そして常人に出来ない表現法を持っている人である。
 それは言語や人種の垣根を越えたところにあるから世界中であれだけファンの心を揺さぶることになるのだろう。
 でもねぇ。彼が子供に電話している姿は、なんとも可愛いい。
 年長の僕にはすこぶるやんちゃで可愛いい少年に見えて仕方がないのだった。


 一月ほどして、再び沖縄に行く機会があり、丁度喜納さんが那覇に帰っていたので、ライブハウスを訪ねた。
 いつものソファに座っている喜納さんに 「やあ、しばらく」
 喜納さんはきょとんとしたままだ。
 「おいおい、この前、俺のこと兄さんになってくれって云ったじゃないか」
 勿論、そんなことは覚えていない。
 その夜は、大田前知事や政治の話に花が咲いた。
 無論、その事も今は、忘れているに違いない。
 世の中、そんなもんである。



         じゅうごにん目


NHKアナウンサー徳田章さん

 小学館のある編集部のパーティで、編集長がスタッフを紹介するとき、一人一人のカメラ、パソコン、車で紹介していて面白かった。 これだけのことが判るだけで、けっこうその人のライフスタイルや嗜好が判って「うんうん、なるほど」てなことになるものである。

 そのデンでいうと、徳田さんは、ライツミノルタce、マック、メルセデスである。
 徳田さんは、ここ数年東京を離れて四国松山局のアナウンサーであった。あったってことは今年から東京に帰っている。

 NHKのアナは、みんな順番に仕事が廻っているのかと思っていたら、意外や意外、それぞれの番組でアナウンサーを指名しているのだそうな。で、つまり人気アナは局内で引っ張りダコという現象が起きるわけである。そこでライツミノルタce、マック、メルセデスの徳田さんは引っ張られたタコと化している。
 別にライツミノルタce、マック、メルセデスだからのタコではない。徳田だからのタコで、トクダコなのである。
 
 四国四県、どんな離島といえども、いかなる老若男女、総理の名前を知らない人はいても徳田章を知らない者とて只の一人もいるものではない。知らないばかりか超のつくアイドルなのである。
 というのも、東京の大舞台をこなし、一方で四国のおばちゃんたちに紛れてレポートをしたりしているけれど、実にすんなり一体化する。フクトメ(土佐ではフクドメ)やクメのような仮面の正義感や、見下した意地悪さや、無礼さがないからに違いない。
 そこに、ライツミノルタce、マック、メルセデスの都会的センスが漂うわけだから、仕方がない。
 とはいうものの、あまり若い娘にキャッキャッと云われているのを見たことがないのを察するに、もてているのはおばちゃんたちかも知れない、そう思うとまぁ痛快ではある。爽快ではある。欣快であるのである。

 ボクは、以前徳田さんにメルセデスに乗せていただいたことがある。この写真もライツミノルタで撮ったものである。そういえばHページの探し方を教わったこともある。おかげで僕は、今や200枚を越すコレクターである。ボクに教えたのだから徳田さんもきっと助平に違いない。そう思っている。

 と、まぁいささか誉めすぎと思われるかも知れないが、ボクはこれ以外の隠れた徳田さんを知らないのである。もし、「そんなはずはねえぞ」と云う内部告発者がいるならば、メールを頂けば、喜んで付け加えることを約束するにやぶさかではない。

 そうだ、新番組の宣伝をしろと云われていたっけ。明日聞かなくっちゃ。

徳田さんの新番組です
BS2毎週土曜日午後6時〜6時45分「この人このまち」
BS2日曜午前10時〜午後2時「立体生中継・日本悠々」



         じゅうよにん目

        

中国のおじいさん

 中国美術家協会の招きで中国を訪れたとき、裏町を歩いていたら若い保母さんと、幼稚園児の
集団に出会った。保母さんは片手に竹の棒を持っていて、その先に一人の園児が掴まっている。
 次の園児は、竹の棒を握っている園児が着ている服の後ろを掴み、その子の服をそのまた後ろ
の園児が掴む、とまぁ数珠繋ぎになった園児が10人ほどシンクロしながらチーチーパツパと歩い
ている。これがなんともユーモラスで可愛いくてたまらない。
 嬉しくなってそのまましばらくひょこひょこ付いて歩いていると、付いて歩いているそんな僕を見て
笑っている老人に出会った。
 そのお顔がすこぶるつきで美しい。どういう人生を過ごせばこういうお顔になれるのだろうか、そう
思わせるお顔であった。
 僕は急遽幼稚園児の列を離れて、この老人に乗り換えることにし、「ニーハオ」と声をかけた。
 すると老人は、一度も笑顔を消さずに比較的正しい発音で「日本人?」と云った。
 僕は、瞬時にしてこの夢の内にいるような嬉しい数分から、現実に引き戻されたのであった。
 ここでの日本語はあまりにも厳しすぎる。刺すような言語である。僕は、この老人が日本語を話せ
るという事実は、過去に嬉しくて覚えた日本語でない場合が圧倒的に多いことを知っているからだ。
 それからはもう、退行現象で、老人と別れるまでしどろもどろ。日本が彼に何をしたか、彼にとって日本はどういう位置づけなのかを勝手に想いめぐらせ続けていた。
 アジアで昔の日本と出会うとき、常にこういう「儀式」というか「整理」というか、が必要である。
 戦争に参加はしていないけれど、戦争を知っている世代とは、そういう世代なのである。






        じゅうさんにん目

「フクロウ物語」の著者モーリー・バケットさん

イギリス、ロンドンから車で半日ほど北に走った所に住むモーリーさん夫妻は、
私設の動物リハビリセンターをやっています。ボランティア活動で、ご主人は別に勤めを持っての
仕事ですから、物心共に大変な労力です。
おまけにバケットさんは、地域の子供たちに対しても自然教室など、これまたボランティア活動を
やっているのですから頭が下がります。
腕にとまっているのが、モリフクロウです。
「フクロウ物語」は、現在結婚して子供もいるモーリーさんの子供たちが、まだ小さかった頃の話で、
二十数年前のことですが、あのドラマチックな大冒険をした主人公のボズという名のモリフクロウが、
このセンターの片隅でヨボヨボの感じで生きているのを見て感動しました。






















        じゅうににん目

Dr.ロジャー・ペインさん、ポール・ウインターさん
 ロジャー・ペインさんは、世界で最初にザトウクジラが歌を歌うことを発見したクジラの研究者です。彼の録音は、地球上に住む人間など多くの言語と共に、金属板に焼き付けられ、宇宙探査船ボイジャーで現在宇宙を飛んでいます。その一方で、強硬な捕鯨反対論者でもあります。長年のクジラとのつき合いか培った考え方かも知れません。
 ポール・ウインターさんは、ウインダムヒルの環境音楽家として世界中に多くのファンを持ち、オオカミなど、生きものの歌を元に作曲演奏している人で、ケネディ大統領や数万の観衆と共に「うおおーっ」とオオカミの遠吠え音楽をやったことでも知られています。

 ロジャーさん初めて来日した時、彼は成田から直接高知に入りました。その時の顔は、捕鯨国日本、それも元の捕鯨県であり、今なお捕鯨に熱心な方たちのいる高知に入ってきたのですから、まるで敵地に入った戦士のような緊張ぶりでした。
 その後日本各地を廻り、最後に東京で逢ったときは、多くの女性からのプレゼント攻勢で、えびす顔。まるで別人のようでした。
 ロジャーさんの録音したザトウクジラの歌を元にポールさんが作曲したのが「クジラの歌」で、これには「スタートレック」の監督であり、スポック博士でもある、レナード・ニモイさんが「白鯨」を朗読している部分があります。つまり、ロジャーさんと、ポールさん、レナードニモイ、ハーマン・メルビル、それにザトウクジラという研究者、創作家、音楽家、鯨の競演という前代未聞の贅沢なCDであります。

 ちなみに、「スタートレック4/故郷への長い道」は、異星人の宇宙船に乗っていたミスター・スポックがザトウクジラの声を解析
し、地球にクジラを救いに来る、そんなストーリーでありましたよ。


























         じゅういちにん目


竹田津実さん

生物や自然環境をやって≠「る若者は、現代でも純粋な人が多い。
彼らが、C.W.ニコルさんや畑正憲さんに批判的なのは、金や権力や、広げすぎた間口のために、たやすく譲歩しているように映るからである。
捕鯨関係から金が流れたり、日本のナショナリズムに逆らわないほうが、利益が多いと判断して、「クジラ」だけは別だとクジラを捕ることを許容し、欧米が間違っていると発言することに敏感だからだろうと僕は思っている。

もっともすれっからしの僕には、批判される側の方たちの選択も奇異には映らないし、僕もやりかねない脆弱さを持っていることを申し添えておく。

つまりこの若者たちに評判がいい人は、若者たちの純な尺度に近いと映るからである。
竹田津実さんは、そんな若者たちに評判のいい方である。竹田津さんのメッセージは、人と生きもののあり方や、自然観を非常にソフトに、しかし云うべきコトはキチンと語っている。小気味がいい自然体の方である。

 竹田津さんが最近上梓した「家族になったスズメのチュン」のカットを描いたので上京した竹田津さんにお目にかかったが、漫画描きの立場でいうと、このお顔は決して政治家にないタイプのお顔である。

 自然の語り部として竹田津さんの存在は、我々の幸せ濃度を濃くしてくれているのである。
ついでにいうと「家族になったスズメのチュン」 は面白い。さらについでにいうと、この本が売れても印税でないから僕の懐には一銭も入らない。だからこの本が面白いといえば本当に面白いのだよ。はい。