じゅうにん目

南 美希子さん

よせばいいものを、東京の生っ白さを払拭しようと、上半身裸で西表島から鳩間島までの船外機付きのボートに乗った。
おまけに時々身体に海水をかけたものだから、みるみる真っ赤な火傷状態。TBS「いい旅日本」という番組のロケのことである。

宿舎の民宿に帰り、あまりの痛さに水で冷やそうと裏の浜でひと泳ぎした。沖縄の強い太陽光は、海中まで容赦なく到達し、日焼けはさらに重傷となる。
そんな時、南さんが東京から到着した。
車から降りて、ポンと音を立てて日傘を広げると、竹久夢二を思わせる大正ロマンの世界。なぜか彼女を中心に半径1メートルだけは青山六本木であった。

南さんは民宿に到着すると、先ず最初に冷蔵庫のあり場所を尋ね、両腕で抱えた化粧品をそこに格納した。次に海水パンツの私との挨拶が済むと、「いいものがあります」と冷蔵庫から小さな、つまり見るからに高価そうな、そうブランド品てものを取り出すと私の顔の二三カ所に塗りつけてくれた。
冷たくて心地よくて、ま、これを言うならば地獄で仏に逢ったよう。途端に野戦病院で重傷の兵士が看護してくれた従軍看護婦に恋をするように、「南様の下僕となりますシンドローム」となり果てたのであった。
ちなみに、この高級ブランドの化粧品もよく効いたけれど、後で島のおばちゃんが庭にあるアロエの葉をちょんと折って、皮を剥いたドロドロを塗ってくれたものの方が、いや、ものも≠謔ュ効いた。
南さんは美しい。おまけに屈託なく笑い、語り、よく食べ、東京にいるときとちっとも変わらない。だから西表の山も、川も、海も、彼女の周囲1メートルは、常に青山六本木の空気が漂っていた。西表の風景に青山でカットしてきた南さんがペーストされていたのだった。かくして僅かの日焼けさえせずに純白の南さんは、青山六本木へと去って行き、島は元の西表に戻ったが、おかげでイリオモテヤマネコやコブシメやヘイタイガニは一瞬の青山六本木を味わうことが出来て心より喜んでいるのであった。
















     きゅうにん目

奥本大三郎さん

奥本大三郎さんは、日本昆虫協会会長である。
以前、「鳥」の仲間が集まって、月に一度自然や環境について話し合う、集まりを持っていた。
鳥の仲間たちは、昆虫の人たちは、売買価格を上げるため食草を根こそぎ採ったりすると、すこぶる評判が悪く、
その会に、「虫」の人たちを招いて話をしようということになり、奥本さん、岡田朝雄さん、小岩屋敏さんをお招きした。
侃々諤々、それぞれの立場で話し合ったが、らちがあかず、二度の話し合いとなった。
結局、私たち「鳥」は「虫」に論破され、破れたのであった。
世間には、捕殺が目的の集団がいくつかあるけれど、狩猟の集団がターゲットにするのは、哺乳類や鳥類である。
一方、昆虫採集も同じ捕殺が目的ではあるけれど、虫の生態系における地位は低く、数のオーダーでは、哺乳類や鳥類とは比較にならないほど多い。少々採っても減るようなオーダーではない。これが科学である。これが熊やもクジラとは、決定的に異なる「根」なのである。
一方で生命倫理という問題もなくはない。しかし、無数に近い数を持つ昆虫の生命を奪うことで得られる情報が、昆虫の生命を守ることにもなるのである。これもハンティングや、商業捕鯨とは異なる部分である。
そんなことがあって、この時の話し合いがきっかけで、お三人はもっと広く理解を求めなくてはと、昆虫協会の設立にな
ったと聞いた。
 現在昆虫協会は、精力的に昆虫の生息環境保持の活動を行っている。 






















        はちにん目

南伸坊さん

 伸坊さんは、私が漫画誌「ガロ」に連載している頃の編集長だった。最近、新聞でその「ガロ」の版元青林堂のドタバタ劇が報された。社員が社長を不信任して全員辞職したらしい。
 一方社長は、「ガロ」に嫌気を起こして交代しょうとしてしていて、新社長は、DOS時代、素晴らしいワープロを出した、ツァイト社長だそうである。
 ご存じの方もいると思うけれど、ワープロ「JG」は、一太郎などクズ、と思わせるいい出来だった。ところがWINDOWSに乗り遅れた。どうやらツァイト社員も社長に対して信任度が低いようである。低い社長が他の低い社長になるらしいのである。
このいずれの側からもFAXや手紙が届く。アピール文である。
 ところで伸坊編集長は、些末なことに目を向けない、漫画家の根ともいえる感性を評価する、妙に太いニコニコのひとだつた。
伸坊さんの次の編集長渡辺和博さんも、体躯に似合わず飄々とした所があった、そこにニコニコと飄々が作った一時代の「ガロ」があった。
 編集長が個性的なら描く側も個性的であった。商業誌に合わない個性的作品を掲載するから、そう売れるはずがない。で、「ガロ」では原稿料はくれないのが、当たり前。そんな雑誌であった。
 だからだろうか、知らない間に、私は青林堂の株主になっていて、今度の騒ぎで、辞職した社員が株主に対して説明会をするという知らせがきた。ところが株主となると、新社長サイドも呼ばなくてはならないというので、急遽取りやめに。
 一番残念なのは、もう「ガロ」は出せない状況にあるらしいことである。「ガロ」を愛した読者のためなんとか方法はないかと辞職社員たちは、伸坊さんたちに相談しているという。こういう時、ニコニコと飄々が功を奏するに違いないのである。
 写真は伸坊さんの結婚式の時のスナップである。




















       
         しちにん目


はりまや橋でかんざしを買った坊さん純信がいた、五台山竹林寺の和尚海老塚和秀さん

純信が生まれたのは1819年10月10日。長じて五台山竹林寺の脇坊の修行僧となりました。
その脇坊に出入りしていた、壇家で鋳掛け屋の娘、お馬と恋におちたんですね、そいではりまや橋でかんざしを買っちゃったんですお馬に。
それが露見して、安政2年(西暦1855年)9月29日付けで追放令がでます。
別れ別れにさせられた純信は、伊予、川之江の男女(みょうと)岩亀吉親分に身を寄せ、寺小屋を始めるが、これが大変な評判になります。
ある日、評判を聞いた河田小龍が訪れ、純信のお馬に宛てた手紙(現存する)を預かって帰国するのですが、河田小龍はそのまま忘れてしまったというのだからこの人罪なヒトです。
本当は、かんざしを買ったのは、慶全と言う坊さんで、慶全が死ぬ前にそう告白したとの説もあります。

ちなみに河田小龍は、山内家の画家で、ジョン万が帰国したとき(1851年)、数ヶ月にわたり自宅で聞き取りをし、その時の記録「漂巽記略」がジョン万の漂流記として残っています。
 坂本龍馬の師でもあり、江戸から帰った龍馬は、1854年河田小龍からアメリカ事情を聞いているので、ふたりとも翌年に起こった、この純信お馬の話を現地で聞いていることになります。
さらに、竜馬の実家「才谷屋」は関西から衣類や金物を仕入れて売っていて、はりまや橋に出店を持っていたため、ここでかんざしを買ったのではないかという説もあるけれど、判然とはしません。

お馬は、後に再婚し、東京滝野川で晩年をむかえます。ある時、滝野川で高知県人会があり、酔うに連れ「土佐の高知のはりまやばーしでー」と歌い始めます。すると、隣の人がツンツンつねるのです。「なんだ?」というと、「おまんの前のバンバ(ばあさん)がお馬さんぞ」と耳打ちしたそうです。
明治31年66才で亡くなっています。









        ろくにん目

手塚治虫さん 江帆さん(中国の漫画家) と北京動物園にトキを見に行った

知られざる手塚治虫さん
 手塚さんが亡くなって多くの手塚さんを紹介する文章が出ました。そんな中に出てこなかったし、私も書いたことがない話を紹介します。
 日中国交が回復して間もない頃、中国美術家協会から日本の漫画家に招待があり、手塚さんから「つきあってよ」と電話ありました。
 まだ中国の町中を日本人が歩くと大勢人だかりが出来る頃です。
 ある女流作家が招待され、「風邪をひいた」とホテルの部屋で同行の仲間に言ったら、翌日、部屋に風邪薬がとどいていた、などという話があり、必ず盗聴していると言われていた時代です。

 その頃手塚さんのアトムはあちらでアニメになっていて、大人気。「孫悟空は、まったく評判にならなかったよ。なにせ本場だから見てられないんだろう」なんて話の中で、なにかちょっと中国に批判的な言葉が出たんですね。
 そこですかさず私が天井に向かって「今言ったのは手塚さんですからね、岩本じゃないよー」と言ったら。
 手塚さん大慌て。
 そして大まじめに「手塚じゃないですよ。岩本きゅうそくですよ」と天井に向かって叫んだものです。