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文政10年(1827)土佐幡多郡中の浜に生まれる。
この年、西郷隆盛、山内容堂が生まれ、アメリカで鉄道馬車が走る。

1941年1月。高知県、宇佐の港から筆之丞38(数え)、寅右衛門26、重助25、五右16、万次郎15乗り込 んだ船が出港

西高東低の気圧配置による、筋状の雲に押し出されて艪や帆を流されコントロールを失う。船は日本列島を北上し、やがて、潮流によって南下し始める。

水平線に島が現れた。その島の周りにはおびただしい数の鳥が群れていた。

這々の体で島に上がった五人は、雨水を集めて飲み、無数に棲むアホウドリを食した。

水平線に船が通り過ぎたことがった。異文化の「アメリカ」はペン描きにすることに。この瞬間は、和と洋が遭遇した瞬間だからペン描きと毛筆と。

1841年6月27日、たまたま亀を捕るために停泊していたジョン・ハウランド号が漂流民を見つけて、救出される。実に六ヶ月の漂流生活だった。

船は、アメリカの捕鯨船、ジョンハウランド号で、船長は、ホィットフィールド(36才)。

翌日船長が島に残した衣類などを取りに行くため、万次郎を船に乗せようとしたら、万次郎は、また島に残されるのかと泣いてしまった。

漂流し、救助された日本人船員の中には、異国人は人間を捉えて食うために助けるのだと、恐れていた者もいた。

パンに脂っこいモノを塗った食べ物を与えられたが、気持ちが悪くて、懐に入れてこっそり捨てた。
四つ足を食べると神の掟に触れると信じていたからでもある。

新しい航海に捕鯨船がアメリカを出港すると、乗組員が甲板に集められ船長から訓辞を受ける。

 
遠くまで見えるようにマストに登った見張りの水夫。
見張りに適した性格があると「白鯨」でメルヴィルは書いている。

アメリカ式捕鯨は、「漕げ漕げ」に代表される、ボートを死ぬほど漕いで、クジラに接近し、銛で仕留める。

捉えたクジラは、舷側に縛り、皮は剥いで取り込み、肉は捨てることが多かった。臭いで集まったサメの群れ。

皮は釜に入れられる大きさに切り裂かれ煮られ、油は樽に詰められる。

捕鯨船は、船倉に鯨油が一杯になるまで帰国せず、ハワイや、グアムなどに入港しては休養を取り、水、食料の補給をした。

1668年、ナンタケットに一頭のマッコウクジラが打ち上げられた・・・・・