せいねんの主張

 

「器用そうで不器用な、ついているようで結構不運なリッチー・ブラックモア」

by ヘヴィさん

リッチーって周りから見ていると、「ある日突然クラシカルなロックからハード・ロックに転向したら売れてしまったラッキーなやつ」というイメージがあるかもしれません。
特に日本では、「In Rock」がHRの経典みたいに語られることがありますのでその傾向が強いようです。
HRの経典となるともう一枚ZEPの「Led Zeppelin U」という作品があります。
日本や本国イギリスではどちらも正当な評価を受け、さらにはセールス的にも成功しています。

ところがロック市場における最大のマーケット、さらには最も評論人が多いアメリカでは状況が違うのです。
ZEPがアメリカ進出する際、アトランティックは、新人バンドとしては破格の契約と大々的なプロモーションを行います。その前身だったヤード・バーズが著名なバンドだったとしても、これは当時の常識を覆すものでした。
結果的に本国イギリスよりも先にアメリカで大ブレイクするという結果になっています。

ではDPはどうだったかというと、これがまったくZEPとは逆の運命をたどることになります。DPのアメリカ・デビューはZEPよりも先だったのです。また結構売れちゃいました。シングル「Hush」です。
ところが彼らがアメリカで契約したのはかな〜りマイナーなレーベルでして、当然のごとくプロモーションなんてのも適当だったのです。

DPもそのことを感じ始め、またバンドの方向性をHRに転換しようとした際、最初の「風
が読めない」ことをやってしまいます。
「In Rock」というバンドとしては思い切った転換を図る前に、多分ジョン・ロードの提案だと思いますが、オーケストラとの競演アルバム「Concerto For Group And Orchestra」というライブ・アルバムをリリースすることになります。
このリリースがはっきり言って余計でした。既に「In Rock」の構想は出来上がっており、レコーディングに入る寸前だったので、そのような時代に逆行するものは後になってリリースすればよいのに、「流れが読めなかった」んですねえ。

ちょうどこの頃、アメリカでの契約先であったマイナー・レーベルは経営が危機を迎えていました。ですからバンドのこの先の方向性を考えることなく速攻で(笑)、発売しちゃったんですね。この「発売してしまった」という事実が、あの傑作「In Rock」をアメリカでは不当な評価になってしまうきっかけになってしまう訳です。

さてそろそろ答えを言っちゃいましょう。(笑)
「In Rock」の完成と同時期にその"マイナーなレーベル"は倒産しちゃいます。その後DPの版権を買い取ったのは大メジャーなワーナーです。
「既にあるものを宣伝して売る」企業としては当然の行為です。(笑)
DPはワーナーからの依頼で「In Rock」を完成しているにもかかわらず、「Concerto〜」のプロモーションのためのライブをやる羽目になってしまうのです。
本人たちもモチベーションは思いっきり下がっています(笑)。
結論として「売れません」(笑)。
当然、その路線から方向転換した新作「In Rock」のプロモーションなど企業論理からすると「真剣になるはずがない(笑)」。
これがアメリカでまったく売れなかった原因なのです。

ちなみにイギリスをはじめとする欧州では「そんな余計なプロモーション」はありませんから、当然のごとく「レコードは売れるし、アルバムの評価も高かった」訳なのです。
なお日本ではDPは「Black Night」(シングル)で人気に火がつきましたので、「In Rock」は「HRの経典」と呼ばれていることにも納得してしまうわけなのです(笑)。

さてアメリカで不遇な扱いを受けていたDPですが、そこは"ZEPよりは演奏技術に自信を持っている彼ら"のことですから(笑)、「ライブで実力を見せてやる!」とばかりにかなり頻繁にアメリカでツアーを行うことになります。
アルバムは不幸にも売れませんでしたが、楽曲と演奏が素晴らしければ当然評価は上がっていきます。そこに「Machine Head」のリリースです。
やっと彼らにも春がやってきました(笑)。「売れました!」(パチパチ!)

上手く回っているときはすべてが上手く回ります。
ちょうどこの頃DPは日本でライブを行います。日本でのDPの人気はかなり高く、レコードもそこそこ売れていたので、"日本限定発売"という条件で3日間の公演をライブ・レコーディングすることになります。
(注:事実、1980年代中頃まで日本で2番目にアルバムが売れていた洋楽アーティストでした。ちなみに1位はビートルズ。)
この"日本限定発売"の予定が、かなり出来が良かったので欧州でも発売されることになります。そうです「Live In Japan」です。(ちなみに海外では「Made In Japan」)

アメリカでレコード会社に冷たくされていた過去もあり、このころの彼らは強気でした。
当時アメリカでは「Machine Head」の好調な売り上げもあり、次作の「Who Do We Think We Are」のリリースを予定していました。
つまり「Made In Japan」は予定になかったのです。しかしリッチーはここで強気に出ます。「「Made In Japan」は「Machine Head」のツアーを収録したライブ盤だ。今出さないでいつ出すのだ!」
結局レコード会社がリッチーの言い分を呑み、「Made In Japan」がリリースされます。
さらにはシングル・カットとしてライブ・ヴァージョンの「Smoke On The Water」もリリースされます。結果はご存知の通り、大ヒットです。
・ ・・・・しかし、この時もう不幸は始まっていました(笑)。

この「Made In Japan」がリリースされたのは1973年です。DPの歴史をご存知の方はピーンときたでしょう。アメリカで絶頂期にあったとき、既に2期DPは終わりに近づいていました。(笑)
「2期DPこそHRの王道」と信じるHRファンの方も多いはず。アメリカ人だってそうなのです(笑)。絶頂期にありながらヴォーカルが変わっちゃいました(笑)。
一気に風向きが変わっちゃいます。最初は良い関係だったデヴィッド・カヴァーディルとリッチーですが、あっという間に関係が悪化していきます。お互いブルーズが好きなのですが、やりたいことが微妙に違っていたのです。

DPを脱退したリッチーはDPで出来なかったことをやるようになります。それは、
1) 徹底した中世的イメージのHR
2) ヒット・チャートに入るポップな曲
完全に矛盾しています(笑)。こういうことを一枚のアルバムでやってしまうことに無理があります。さすがのリッチーも2)に関してはある時まで封印をすることになります。

さて1)ですが、この頂点ともいえるのが「Rising」です。
しかし時代が悪かった。何せリリースが1977年末。アメリカでは「Saturday Night Fever」が吹き荒れていたころです。さらにアンダーグラウンドではパンク・ムーブメントがかなりの勢いで進行していた時期です。「売れるはずがない!(笑)」
この時期あのエアロスミスも売れていません。まして「王様がどうのこうの」なんて歌詞が受け入れられるはずがない(爆)。
これがあと5年遅かったら、良かったんですけどねえ。

「え?リッチーってポップな音楽が好きなの?」という疑問が当然沸くと思います。
そうなんです。リッチーはポップ・ミュージックが大好きなのです。ヒット・チャートも大好きなのです(笑)。ある時期ABBAの追っかけみたいなことまでしていたという話もあります。そんなリッチーですから「アメリカで売れない」ことに我慢が出来るわけありません。で、リッチーなりに考えてみました。
「アメリカで売れるにはどうしたら良いか?」
1) ヒットするにはFM放送局で頻繁にオンエアされる必要がある。そのために曲の時間を短くしよう。「Stargazer」のような大作はダメだ。
2) 「王様を殺せ!」「女王様がどうのこうの」なんてのは受け入れられない。やっぱりラブソングにしなければならない。

これを実行したのが「Down To Earth」です。
ラブ・ソングを書けないロニー・ジェームス・ディオはそのままリッチーと対立し、脱退することになります。コージー・パウエルもかな〜り不服そうにドラムを叩いています。
かなりの方向転換を図ったのですが、時代は既に変わりつつありました。そうです。またリッチーは時代の流れを読めなかった。(笑)
この頃はへヴィ・メタル・ムーブメントが起こりつつある時代でした。セールスということを考えれば方向転換は必要なかったんですね。

しかし、そこであきらめないのがリッチー御大のすごいところ(笑)。さらなるポップ路線のアルバムをリリースします。ヴォーカリストもティーン・エイジャーに受けそうな甘いルックスのジョー・リン・ターナーに変わります。
結果、どんな音楽のムーブメントがあってもポップは不変な人気を保っているアメリカです。シングルもアルバムもTOP40に送り込むことに成功します。
でもこの頃のレインボーは既に王道のハードロック・ファンからは遠い存在になってしまっていました。

その後DPを再結成して再結成前ほどのブレイクはなかったにしろそこそこの成功を収めますが、厳しい人が見ると再結成ブームの一環にしかなかったかもしれません。
その音楽性や作品は似たような扱いをされるZEPとそれほどの差があるとは思えません。
しかし世界的な評価を見てみると、このような差になっているのはリッチーの不器用で、重大な局面で運が無かったと考えることは決して間違いではないと考えるわけであります。

 

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