シマフクロウ Blakiston's Fish Owl |
僕が初めてシマフクロウという鳥の存在を知ったのは、かれこれ30年以上前の1968年頃だと思う。 戸川幸夫さんの紀行文を読んで、鷲が見られるところとして「知床」を知り、出かけたのであった。 なにせ雪を見るのが生まれて初めてだったのだから、興奮の連続でテンションは上がりっぱなし。網走から知床までタクシー代も惜しくないとばかりすっ飛ばしたのであった。 その年、宇登呂のオシンコシンの滝に建築された「知床パークホテル(現在は名前が変わっている)」が初めて冬期試験的に営業を始めていたので地の果てでも宿泊ができた。 言うまでもなく客は僕一人。鷲を見に来たというとほとんど信じてもらえなかったのだった。 支配人の高橋宏治さんが、それではというので案内してくれることになり「鷲の見つけ方」を伝授してくれたのであった。 夜は、従業員と近くの仲間などが僕を囲んで四方山話。その時地元のハンターが「先生ヨー」と始めたのが身の丈一メートルもるフクロウを見たことがあるんだぁ、そんなフクロウはいるんかぇ?であった。 もちろん僕にはそんな知識がないから、そんなのがいるんなら見せてよ、というと、一人じゃクマがいるから危ないという。「んじゃハンター連れて一緒ならいいんだろう?」そんでも一番前のがやられるとはかぎらねえ、だいたい三番目ぐらいを歩いているとやられるんだ。ひょいと振り向いたら、熊笹から手が出てきて首が後ろ向きに付いてた、なんてのもあるからなあ。と脅かす。 帰京して調べたら体長80p、フィールドで見たら見誤る誤差の範囲である。 存在は江戸時代から知られていたのだが、繁殖などの生態は全く判っていない頃であった。以来、僕が「見たくてたまらない症候群」にとりつかれたのは言うまでもないのであった。 |
日本最大のフクロウで、飛ぶ姿はまるで畳が飛んでいるように見えます。初めて見たときは、もう死んじゃってもイイヤ、と思ったほどですが、生命がいくらあっても足りません。 アイヌの方たちの集落の守り神コタンク(コ)ルカムイとして祭事に欠かせない最高の神でした。自然がなくなりこの鳥がいなくなると言うことは、ある民族にとって、神がいなくなることであり、文化が滅びることでもあります。 日本では北海道にしかいません。写真は根室と帯広で撮ったものです。 江戸後期、松浦武四郎は、供を1人連れただけで数度にわたり北海道を訪れ、ほとんど全道くまなく見て回っています。 彼は、内地の人間がアイヌの人たちから、収奪、強姦、強制移住、殺戮、そして人口を激減させたことなどこまかく見、そしてその非を説き続けてきた人でもあります。 しかし、これらの行為は改まることなく、維新の新政府になってからもアイヌの人たちを「土人」として同化政策をとってきました。 やがてこの図式はそのまま大陸に持ち込まれたことは、既にご存じの通りで、ひょっとしたらこれが日本人の資質ではないかと思うと肌寒くなります。 武四郎の記録は、多くの驚くような事実を伝えていて、例えば羅臼の洞窟で夜ビバーグした時、武四郎のすぐ側で武四郎の食い残した魚の骨をヒグマがボリボリかじるのを聞いて寂しくなったなどとあり、当時は、誰もヒグマを恐れていなくて、ヒグマが凶暴という話を作って殺すようになったのは、明治からであることなどがよく判ります。 シマフクロウを飼い敬う様子のスケッチ。松浦武四郎の直筆 羽角は70ミリほど。 食性 主に魚が好物で、鮭やイワナやオショロコマなどを食べています。季節によっては哺乳類、ザリガニ、蛙なども食べます。 異名・俗名 アイヌの方たちでは、コタンクルカムイ(部落の守り神の意)という |
ええ、見つけようなんて気を起こさない方が・・・・・・・ 参考までに、ヒントだけ記しておきましょう。 1.川沿い、海沿いを探す。 2.巨木を探す。 3.声を聞く。 4.人の噂を聞く。 5.いつか逢える日を祈る。 6.最初から見る気を起こさない。 |
シマフクロウの巣を探すため木の洞を覗いたら、いきなりフクロウ(エゾ)が飛び出して肝を冷やした。内には雀ほどの小さな水鳥の首なし死体があった(左)。 どうやらフクロウも近くの湖まで行って餌をとっているらしい。季節からいってここは巣ではなく、一夜のねぐらであった。 後に、この洞がシマフクロウの巣であることが判明した。 |
生まれて初めてシマフクロウの存在を知った知床ウトロに、シマフクロウの事故防止のため、北電が電柱の上に「とまらないタイプ」と「とまり木タイプ」の細工を取り付けてあるのを見た(2001.09)。 自然センターの協力で作ったものだそうだが、北電も味なことをするものである。こういう話は嬉しいね。 別の見方をすれば、つまり、これは、夜、ここで待っていたらいつか見られるということでもあるのだ!!^-^!! |