古い文献からフクロウの仲間について書かれているものを探すと、
当時の人々にとって、フクロウがどのように見えていたかが判って興味深いものがあります。
生態としての情報の把握、言い伝えなど、時に悪魔の鳥になったり、吉祥の鳥となったりします。
江戸時代の解説書は、中国の薬草の知識、「本草」を元に、日本の情報を加味したものです。
意外に正確であったり、また意外にいい加減であったりするのが面白いと思います。

古い文献には、第二水準の漢字にない字があります。
作字をしても、他のマシンでは読めないことなど、インターネットの泣き所です。
そんな表示不可能な字は、やむを得ず「○」で伏せ字にしてあります。

旗本三千石の毛利梅園(1815-81)の
描いたオオコノハズクで、ずくびきの後、真写したとあります。
囮に使ったオオコノハズクを近くで写生
したものなのですね。
以下の古典にもフクロウの仲間を使って小鳥を捕る(ずくびき)のことが書かれています。
この猟法は、戦後まで続いていました。
一万六千石の佐野藩主、堀田
敦侯(1755-1831)のシマフクロウです。
北海道にしかいないフクロウを
この時代にこれだけのリアリズムでとらえたのは見事というほかありません。

それぞれの写真と見比べてみて下さい。







六国史の一。奈良時代に完成したわが国最古の勅撰の正史。
神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。
三○巻。七二○年(養老四)舎人()親王らの撰。日本紀。

日本書紀 十一仁徳
元年正月、代骸鷯尊即天皇位、 初天皇生日、木菟入、于産殿、明旦誉田天皇  喚大臣武内宿弥語之日、是何瑞也、大臣対言、吉祥也、復當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋、是亦捩=A天皇曰、今朕之子與大臣之子同日共産、兼有瑞是天之表焉、以為取其名各相易、名子為後葉之契也、則弱鐚鷯名以名太子曰代骸鷯皇子、取木兎鮪緞大臣之子曰木兎宿禰、

 初め天皇生まれます日に、木兎(つく)、産殿に飛び入れり、明旦(くるつあした)に、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣武内宿禰(たけのうちのすくね)を喚して語りて曰く、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ、大臣、こたへて言さく、「吉祥なり。また昨日、臣が妻の産む時に当たりて鷦鷯(ささぎ 註・ミソサザイのこと)、産屋にに飛び入れり、是亦異し」とまうす。ことに天皇の曰く、「今朕が子と大臣の子と、同じ日に共に生まれたり。並びに瑞あり、是天つ表なり。以為ふに、その鳥のを名を取りて、各あい換えて子に名付けて、後のよの契とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子に名付けて、大鷦鷯の皇子と曰へり、木兎の名を取りて、大臣の子に名付けけて、木兎宿禰(つくのすくね)といへり。
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 この伝説では、同じ日に生まれた二人を出産にあたって産屋に飛び込んだ鳥の名を交換してそれによって子の名をつけている。名前交換である。それによって友情の絆を強める習俗は、世界各地にあり、ことに東南アジアからオセアニアに分布している。マリアナ諸島では、この名前交換の友情を壞つた者は、自らの親族によって殺される。
木兎フクロウは、内陸アジアや、北方ユーラシアではしばしば聖鳥となっており、アイヌもフクロウ祭りを行い、中国では漢代までフクロウの鳴き声を凶兆としていたが、そのご唐代には吉兆としていた。進士に合格する前知らせがフクロウの声であったといい、張率更は、庭園でフクロウが啼くので、妻は不吉を嫌い唾を吐いた。張率更は、早く掃除しろ、必ず栄転だと云っているうちに、賀客が門に殺到したという。
                                         訳以降は、岩波文庫版日本書紀による。 



ご存じ平安中期の長編物語。紫式部の作。
宮廷生活を中心として平安前・中期の世相を描写し、全編五十四帖に分つ。
幻まで前編とし、主人公光源氏を中心に藤壺・紫の上など幾多の才媛を配して、
その華やかな生涯を描くのですが、なんとフクロウも登場するんですね。

源氏物語 四 夕顔夜中も過にけんかし、風ややあらあら志う吹たるは、まして松のひゞき木ぶかく聞えて、けしきある鳥のからごゑになきたるも、ふくろうはこれにやとおぼゆ、






帝王編年記 二十四條仁治元年十月廿日、今夜梟入居内裏清凉殿、女官見付之、行遍僧正弟子自壇所参上捕り之、


本草書。一二巻。人見必大(さだすぐ)著。
1697年(元禄10)刊。
明の李時珍著「本草綱目」にならって、食用・薬用になる
本草について漢文体で記した書。
原典は漢文ですので、平凡社、東洋文庫より島田勇雄氏の現代語訳を抜粋させて頂きました。

木菟 
美美都久(みみづく)と訓む。あるいは都久(づく)という。

《釈名》源順は、「木菟は鴟(とび)に似ていて小さく、兎の頭で毛角のあるものである」といっている。必大(わたし)の考えでは、兎は「爾雅」によれば老兎の名とあり、これは鳥の頭、目をかたどっつていったものである。木という字義はまだ詳らかでない。けれども木に住む老兎の意味でもあろうか。我が国では古来から木菟という言い方をして久しい。仁徳帝が生まれるとき、木菟が産屋に入り、同時に武内弥宿の産屋にも鐚鷯(ミソサザイ)が入って子が産まれた。それで応神帝はこれを吉兆とした。君臣はその祥を相代えて、それによって名付け、仁徳帝を代骸鷯(おおささぎ)となし、武内の子を木菟弥宿としたという。千載までもこれを美談としている。
《集解》木菟、形状は鴟、鷹に似て、ちいさく、黄黒斑色。頭・目は兎のようで、両頬に白い圏があり、中に目がある。頭の頂に毛角があって、両耳は尖って長く、喙は小さく黒く、掌は黄、つばさは鴟に似ていて短い。昼は伏し、夜に出てくるが、遠くに飛ぶことはできない。小鳥を捕らえて食う。鳴くときは雌雄で相喚ぶが一隻でも鳴く。その声は梟に似て短い。夜には蚤虱を拾うことが出来るのに、白日には物が見えない。それで鳥を捕らえる人は、木菟をほこのさきに繋いで林の中におき、周囲に羅ばこを設けておけば、群禽が木菟の暗盲を笑うように集まってきて。蓁に羅にかかる。手足を労せずして数百ほどもの禽を捕らえることが出来るわけである。我が国の世間では不祥とはせず、鷹、蜚の属として木菟を愛している。
梟 
布久呂不(ふくろふ)と訓む
《きょう》。古俗。

○源順(和名抄)は、「弁色立成」に佐介と訓むとある。といっているが、いまだこれを詳らかでない。《集解》形は母鶏に似て、頭・背に黄黒色の斑紋がある。頭は円く、喙は短く尖っている。両頬に黄白色の圏があり、相対しているようで、その中に猫の目のような目があって、尾w廻のように短く、笘、掌は青白い。盛午は物が見えないが、夜になると飛行して鳥虫を食い、あるいは民家に入って鼠を食べる。鳴き声は初めは呼ぶように後には語るように鳴く。山林の処々にいるが、もし人家に近くいるときは凶であり、そのためふく、訓狐と同様に(華和異同に、きょう、訓狐とは梟と同一物とある)悪禽とされている。予(わたし)は初めその凶であることを識らなかったが、往年京に使してそのことをさとった。あるいは父母を食うといい、また人の爪を食うとも言われる。しかしこれは古人の伝承であって、まだ詳らかでない。 一種に嶋梟というのがある。形体は同じであるが、毛羽は黄赤に紫斑がある。稍美しくて愛らしい。海国に多くいる。また一種に白梟というのがあり、松前、蝦夷に希にいる。形体は同じで毛羽は白くて紫斑があり、羽は最も美しい。この二つの梟は、いずれも近頃楊 弓の箭羽として美を競うのみである。




寺島良安著。江戸時代の代表的図説百科辞典です。
一○五巻(実数は八一巻)。
明の王圻の「三才図会」に倣って、和漢古今にわたる種々の事物を
天文・地理・動植物・人物・器具などに部分けし図を挙げて漢文で解説したもの。
巻首に正徳二年(1712)の自序、翌年の林鳳岡などの序があります。倭漢三才図会略。
原典は漢文ですので、平凡社、東洋文庫より竹島淳夫氏 樋口元巳氏の現代語訳を抜粋させて頂きました。

復刻版より

みみずく つうひゅう

俗に美美豆久という

本草項目に次のようにいう。ミミヅクは大きさe鉚鷹ぐらい。黄い黒の斑色、頭、目は猫のようで、また老兎のようでもある。毛角両耳がある(それで木菟という)昼は隠れていて夜に出てくる。鳴いて雌雄は互い喚び合う。声は老人のようで初めは呼ぶがことく後は笑うように聞こえる。この鳥の行くところに不祥事が多い。夜によく蚤、虱を拾う(人の手指の爪を拾うというのは妄説である、ともいう。蚤、虱の蚤の字を誤って爪甲を示す字である蚤のこととしたのであろう)。

思うに木菟(日本紀ではこの二字を用いている)は大きさコノリぐらいで、全体は褐黒色豆に似た白彪がある。胸も同色で横に白彪があり、相乱れて蛇腹文のようである。頭目は猫のようで、目の外に白圏がある。目の中は黄赤でよくくるくるする。毛角に小さい点彪があって胡麻のようである。その下に耳穴があり、怒ると毛角が縦に一寸ばかり起つ。足は黄赤、笘は短くて毛があり、これを伝毛といい、痰鶏v碾に似ている。爪は勾って鋭く、喙(くちばし)は下が短く上は長く、勾って黒い。遠くまで飛ぶことは出来ず、夜に出てきて小鳥を摯る。
 鳴き声は梟似ていて短く、声を連続させて甫伊甫伊(ほいほい)と鳴く。尾羽根は短くて12枚、表の文様は幽微かで、裏の文様は鮮明である。これを飼って囮とし、目隠しをして止まり木につなぎ、側にあみばこを置くと、木菟が盲の形になっているのを嘲笑するように、諸鳥がやってきてさわぎたて、かくてあみばこにかかるもの数知れず、労せずして鳥を捕らえることが出来るので、人はこれを賞する。



復刻版より

ふくろう ごう 

 梟蜚(きょうし、音はきょう)
 和名は布久呂不。または佐介(さけ)

「本草綱目」に次のようにいう。梟の状は母鶏に似ていて斑紋がある頭はくろつぐみに似て目は猫の目のようである。自分の名を呼ぶような鳴き声で、好んで桑のみを食べる。わかいときは美好で、長じると醜悪となる。ひるまは物が見えず、夜に飛行するが、遠くまで飛ぶことはできない。長じると自分の母を食べる不孝の鳥である。それで古人は夏至にこれりbキる。梟の字は鳥の首を木の上にのせる形になっている。北方では梟が鳴けば人は怪しむが、南方では昼夜飛び鳴いて烏鵲と異なることはない。
家々では羅で梟を捕らえてこれにネズミを捕らせ、猫よりも勝れているという。

 肉(甘、温) にもの、やきものとしてたべるのがよい。古人は多くこれを食べている。
 孟康(薜の人、「漢書」の注を作った)は、梟は母を食べる。破鏡は父を食べる、という。破鏡とは(ちゅ)に似ていて虎の目を持った獣である(ちゅは狸に似た獣である)。

物思えば木高き森にふくろうの苦しきかとも問ふ人ぞなき 寂蓮

思うに、ごうは、形(なり)も態(しぐさ)も木菟に似ている。ただ毛角がないだけである。状は木菟より大きく、トビよりも小さく、尾は短く、頭や目は木菟ぐらいで全体は褐黒色にきぐろのふがあり、白ふのものもある。漕pFおよび伝毛も木菟に似ている。昼は隠れ夜に出て小鳥をとって食べる。鳴く声も木菟に似ているが長く、方伊方伊となく。晴れるときには乃利須里於介(のりすりおけ)ときこえ、雨が降るときには乃利止里於介(のりとりおけ)となくようにきこえる。それでこれによって雨晴を占う。初めは呼ぶが如くで、後には笑うように鳴き声が聞こえるというのはこれである。雌はふもあらく、鳴き声も久伊久伊(くいくい)と聞こえる。





(「日東の爾雅」の意)語学書。二○巻。新井白石著。1719年(享保4)成る。
中国の「爾雅」などにならって、物名についてその語源的解釈をした分類体語源辞書。

東雅 十七禽鳥
 木兎ツク
ツクの義は不詳、和名抄に爾雅を引て、木兎はツク、或いは云ミミヅク似蜚而小、兎頭毛角者也と註し、また梟はフクロウ、辨色立成にサケといふ、きゅうりゅうは、漢語抄にイヒトヨといふと見えたり、日本紀に体留、豊浦大臣の宅倉に子を産む事をしるされ、、体留は茅蜚也と註せられしを、舸にはイヒトヨは梟の異名なり、爾雅に據るに、これら皆梟類にして、悪声の鳥也と見えたり、サケとイヒトヨといふが如き、並又不詳、





小野蘭山が「本草綱目」をもとに日本の本草について講義したものを、その孫・門人などが整理し出版した書。
四八巻。一八○三年(享和三)上梓。方言資料としても貴重。

重修本草綱目啓蒙 三十三山禽
木兎(日本紀)ミミヅク(和名抄)ツクドリ(古歌)一名猫鳥(本経逢原)大頭鷹(附方)掘窟鳥(呉氏食物本草)夜猫鳥(盛京通志)猫頭鳥(五雑組)猫圓(興化府志)大耳鳥 狐圓(共同上)雛ヨリ畜ヘバ善馴ル、形きょうニ似テ小ク、喙廣ク短シ、頭圓大、目モ亦圓大ナリ、両大耳アリテ猫頭ノ如シ、昼ハ目ハ開ケドモ、物ヲ見ルコト能ハズ、樹間ニ睡ル、夜ハ甚ダ明ニシテ鳥鼠ヲ捉リ、蚤虱ヲモ拾フ、一種コノハヅクハ、形小ニシテ伯勞(はくろう−モズのこと)ノ大サアリ、是○○ナリ、一名角蜚(訓蒙字會)



フクロウ
サケ(和名抄)フクロウ(同上)フクロ トリノカラコエ カホヨドリ ミナヲドリ(共に古歌)子コドリ(常州)ヨヅク(雲州)ヨゴウ(上総)トリヲイ(勢州白子)フルツク(阿州)フリキツ(讃州)食母 隻狐 怪鳥(亨ゴ註)訓こう 福鳥(山堂○考) 黄禍侯(庶物異名○)唾十三(清異録)猫猿(福州府志)禍鳥 晝鳥 留栗 掛首 夜遊女(いずれも事物異名) 伯勞子 禿角 夜猫(訓蒙字會)

山中ニ多シ、晝ハ林中ニ睡リ夜ハ市中ニ出、人コレヲ悪ム、凡毎夜市中ヲ飛過ルニ必定處アリテ、屋上ニ於テ鳴クモノハ害アラズ、若シ新ニ他ノ屋上に来リ鳴ケバ、必ソノ家ニ凶事アリ、ソノ鳴コト俗ニノリスリヲケト聞ユレバ翌日晴、ノリトリヲケト聞レバ翌日雨ト云フ、一種ニテシマフクロウハ、略シテシマフクト云フ、蝦夷ニテクン子リキト云フ、形大ニシテ角鷹ノ如ク、觜曲リテ鷹ノ如シ、脚モ鷹ノ如クニシテ蒼黄色、頂ニ両角アリテ大頭鷹(オオミミズク)ノ如シ、毛羽○黄色ニシテ紫斑アリ、茶家ニ用テ拂末(ハボウキ)ニ造ル、一種シロフクロウハ略シテシロフクト云、松前蝦夷ノ産ナリ、羽色白クシテ紫泊楽アリ、揚弓ノ矢ニ用ユ、一種レウシドリハ○ノ形状ニシテ小ナリ、桝矚ハ同カラズ、是八○通志ノ狐猿ナリ、



貝原益軒 元禄13年江戸中期 1700年 
これは語源辞書で、中国の「釈名」にならって
書いたと言われますが、内容は、どうも駄洒落の
ようで、いまひとつ信頼しかねる気がします。
いや本当はこれで正しいのかも知れませんが・・・

日本釈名 中鳥 
梟(フクロ)其毛ふくるる鳥なる故也、るはろと通ず、一説ははくらふ也、梟は悪鳥にて其母をくらふもの也、はとふと通ず、らとろと通ず、



これも同じく貝原益軒センセイの著で、
宝永6年江戸中期 1709年の作。

大和本草 
十五山禽 ミミツク
日本書紀木兎トカケリ、耳アル故ニミミツクト云ナルベシ、ごうハ大ナリ、ツクハ小ナリ、コノハヅクハミミヅク、ごうヨリ小ナリ、コレモ亦耳アリ、フクロウニ似タリ、
十五山禽 フクロウ
一名鵬、一名訓狐、一名梟、本草ニ○(きょう)肉甘温無毒甚美、可怎○、灸食、鵬ノ小ナルアリ、俗名レウシトリト云、其ナク声常ノ鵬ト異り、




風俗文選 三譜
梟の晝出てまよひありきぬるいとおかし、かならず笑はれじとはたらきたる顔にもあらず、さるたぐひの老僧にや、むかしも市中にあそびける也、





木兎 ミミヅク
みみづくの骨は眩暈(げんうん−めまいのこと)の薬也くろやきにして酒でのむ也
○(フクロウ)
ふくろうは鼠○(ろう)やむ人炙りくへ風癇○病なをしこそすれ ふくろふは雀目(とりめ)によろし常にくへ目を明かに夜る細字みる






木兎
此鳥秋渡る鳥なり、但し日光山よりも沢山に来る、勿論大小有、毛色いろいろ有、秋頃づく引とて、是にて小鳥を取る事、人々志る處也、餌飼鳥の肉を喰、後すり餌につける也青葉づく此鳥も秋渡る也、地に而もとれる也、尤耳はなし、総羽黒し、腹に柿の府あり、目は志んちうの色也、づく引には一向役に立たざるもの也、

青葉づく
此鳥も秋渡る也、地に而もとれる也、尤耳はなし、総羽黒し、腹に柿の府あり、目は志んちうの色也、づく引には一向役に立たざるもの也、






木菟びき(ずくびき)



 木菟びき(ずくびき)は、ミミズクを囮にして、小鳥を捕る猟法です。
 武器を持たない小鳥たちは、天敵である鷲や鷹やフクロウの仲間を見付けると、集団で囃し立てる習性があります。「わー怖い怖い、ここにこんな奴がいるぞー」とばかり何十羽もの群で抗議行動をするのです。
 これをモビングと呼びます。バードウォッチングでは、「モビングしたら鷲鷹疑え」という格言があるほどです。
 フクロウに限らず、鷲や鷹にも、いつもカラスが付いています。
 こうして囮のミミズクを見付けた小鳥たちが騒ぎ立て寄ってくる木の枝にトリモチを置いておくのですから、そこにとまった小鳥はトリモチにくっついてしまうというわけです。

 木菟びきは江戸時代からやっている猟法で、記録があるのが上記の本(本朝食鑑)で、これの出版が元禄十年ですから綱吉の時代です。といえば云わずと知れた生類憐れみ令です。元禄九年には大坂の与力、同心十一人が鳥を捕らえて町人に売ったかどで切腹になっていますし、旗本の息子が吹き矢でツバメを撃ったというので斬罪になっています。
 ですから元禄時代に、命がけで木菟びきをやっていたかどうかは判りませんが、当然猟法そのものはもっと以前からあったと考えられます。

 近代になると、昭和十七年発行の「日本鳥類狩猟法」に、この頃、大坂の弁護士で木菟牽びきの名人がいて、一度に200羽の小鳥を集めていたとありますし、著者は木菟牽に同行しています。
 木菟びきは、戦後もしばらくやる人がいましたが、もちろん今はいません。今は、木菟牽よりも綱吉が必要な時代です。

 アメリカでは現在もモビングの習性を利用したクローシューティング(カラス猟)があります。デコイのフクロウとカラスを使い、カラス笛を吹いて集まってくるカラスを撃つ猟法です。
 実物はコレクションでご覧下さい


 参考までに「狩猟図説」という本から江戸時代の木菟びきの詳しい方法を紹介します。

 木菟牽(ずくびき)は、籤黐(ひごもち−竹ひごにとりもちをつけたもの)を多く作り、大なる竹筒に入れ、宿木(とまりぎ)になすべき樹枝とコノハズクとを携えて山に至れり、樹木茂りて小鳥多く集まるところを選んで設くべし。但しコノハズクを最良とすれどもオヅク(オオコノハズク)にても可なり。その法山麓その他樹木の生茂したる地を撰み、宿木を建て、これにオヅクを繋ぎ、足皮に細き絲を附け、籤黐をその近傍の樹枝に配置し、而して数十歩を隔てて身を叢間に潜匿し、雀笛(ことり笛)を吹けば、たちどころに小鳥は群をなし、ヒヨドリ、カシドリ、シジュウカラ、ホオジロ、ヒタキ、アカハラ、アトリ、メジロ、ウグイスの類皆来たりてオヅクを取り囲み、喃喃喧叫す。その状夜間の恨みを報いんとするものの如し。この時猟者は絲を牽き適宜に緩急をなすときはオヅクは宿木の揺動に驚き、羽翼を張り目を開き、頗る恐怖の態をなす。是に於いて諸鳥は愈(いよいよ)之を侮り狂へる如く酔へるが如く、オヅクの傍に飛翔して終には黐にかかるものなり。之を捕へ又処を転じて前法の如くして捕ふ可。但し竹宿木を造り、篠、小枝等を以てオヅクの周辺を囲い、絲を宿木に結びつけ之 を牽けばオヅクその篠中に隠れ、之を緩めれば、オヅク篠上に顕出するよう装置し、猟者そのところを離れ絲を以てオヅクを篠中より出没せしむれば諸鳥はオヅクを侮翫する殊に甚だしくして多く黐にかかるものなり。
江戸後期、松浦武四郎は、供を1人連れただけで数度にわたり北海道を訪れ、ほとんど全道くまなく見て回っている。
彼は、内地の人間がアイヌの人たちから、収奪、強姦、強制移住、殺戮、そして人口を激減させたことなどこまかく見、そしてその非を説き続けてきた。
しかし、これらの行為は改まらず、維新の新政府になってからもアイヌの人たちを「土人」として同化政策をとった。やがてこの図式はそのまま大陸に持ち込まれたことは、既にご存じの通りで、ひょっとしたらこれが日本人の資質ではないかと思うと肌寒くなる。
 武四郎の記録は、多くの驚くような事実を伝えていて、例えば羅臼の洞窟で夜ビバーグした時、武四郎のすぐ側で武四郎の食い残した魚の骨をヒグマがボリボリかじるのを聞いて寂しくなったなどとあり、当時は、誰もヒグマを恐れていなくて、ヒグマが凶暴という話を作って殺すようになったのは、明治からであることなどがよく判る。

               シマフクロウを飼い、敬う様子のスケッチ。松浦武四郎の直筆

アイヌの方たちでは、シマフクロウが集落の守り神(コタンクルカムイ)として、数ある神の内で最高に位置づけられていた。
 そのため、熊狩りに出かける途中、シマフクロウに合うと先ずシマフクロウから捕らなくてはならなかった。そうしないと熊が捕れなかつたといわれている。
現在でもシマフクロウを「送る」神事は残っているものの、野生のものは捕れないために、動物園から借りてカタチとしての神事を再現している。
「送り」は殺してしまうことだが、それは生き物は天から借りているもので、それを神の許に返すことであった。


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