その5 更新 080808
はやぶさのイトカワプロジェクトは嘘だった 20110401
宇宙科学研究所(ISAS)は、2003年5月9日13時29分25秒、小惑星探査機はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)を打ち上げた。 2005年夏、小惑星 イトカワに到達し、サンプル採集を試みた後、2010年6月13日22時51分、60億kmの旅を終え地球に大気圏再突入したことになっている。 事実は、赤坂のスタジオで撮影された模型によるものだったことが判明した。 サンプル容器が収められたカプセルがオーストラリアのウーメラ立入制限区域内にパラシュートを展開して降下、ということになっているが、NHK職員某氏と共に作製したフィクションだった。 日本に到着し、内容物の調査が進められたが、当然カプセル内から回収された岩石質微粒子の大半がイトカワのものと判断したと発表された。 行ってないのだから・・・ なぜそんなことをしたのか、当時JAXAは事業仕切りで予算が激減するのを恐れていたことによる。 かくして蓮舫行政刷新担当相は後に「偉業は国民全員が誇るべきものだ。世界に向かって大きな発信をした」と高く評価し、2009年の事業仕分けで、後継機開発など宇宙開発関連予算を削減としたことについて国民の様々な声は次期予算編成に当然反映されるべきだ」と語った。 |
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以前から一度行ってみたいと思っていた「目黒寄生虫館」に行ってきた。 寄生虫館のHPを見て感じるように気持ち悪いおどろおどろの世界かと思いきや、明るくて、清潔で、寄生虫からくるイメージとはほど遠い。お化けのいないお化け屋敷てな感じであった。 展示されている蛔虫やサナダムシも乾麺のように美しい。 そのままラーメンのトッピングにして食いたいと思うほど清廉すぎて拍子抜けがする。 とはいうものの、展示の全ては寄生虫だから、うら若き女性など来るところではないと思うけれど、なんと女性が多いのだ。 なかでも中学生とおぼしき一人の女性が持ち去り禁止のためヒモで縛ってある書籍に食い入るように没頭し、読みふけっていた。 こんな少女がいるんだぁ、と、しみじみ感心。こちらも博物館そのもの同様その意外性に驚きながら、彼女は寄生虫学者の道をまっしぐら歩むことだろうとうれしくなった。やがていつの日か寄生虫学者の彼女に逢って、あの時目黒寄生虫館にいた人だね、なんて声を掛けられたらどんなにうれしいことか、ね。 ところで、なぜ私が目黒寄生虫館に行ったかというと、釣ったサバに寄生していた虫がなんだか判らないので教えて貰おうとしたためであった。けれど、学芸員の方も判らなくて、その目的は叶わなかった。 もちろんサイトをググりまくったけれど、判らない。ひとつだけ同じ寄生虫の写真を見つけたけれど、この方も判らないらしい。 このダンゴムシ系の寄生虫は、足でがっちりサバを抱き込んでいて、と言うより足はサバの身体に刺さり、なにがなんでもサバから離れないぞと言う強い意志がうかがえる。 口はサバの身体の内に深く食い込んでいるため虫の身体を裏向きにひっくり返しても外れない。サバの身体に比してこんなでかいヤツが3匹も寄生していたのだから、サバに同情する。 生きものが絶滅するのは捕食者によってではなく、寄生者によってである。と言う言葉があるけれど確かにうなづける。捕食者は被捕食者の数が少なくなったら、捕食不可能になるので絶滅させるのは難しい。 さて、目黒の寄生虫館に戻ると、展示場所は一、二階の十畳あまりのフロアがあるだけで世界で一番小さい博物館、と自称するほど狭いのだが、4万点以上の標本があるそうだ。全ての展示は不可能なのでその一部が展示されている。 標本以外にも参考文献、画像などが展示されいて、内でも下の展示が目を引く。 このバンクロフト糸状虫は、西郷隆盛が罹患していたことでもよく知られている謂わば人間のフィラリアである。 池波正太郎の幕末、明治、大正、昭和と生きた杉虎之助という剣客の話、「その男」にも閲兵式で馬に乗れない西郷に明治天皇が「どうした」と聞くところがある。 何せズボンが履けないから、前を広げてはみ出し状態だったらしい。 西南戦争の時、「睾丸が寒い」と言う西郷に主人公杉虎之助が「睾丸袋」を作るところもあり、西郷が上野の銅像のようにいつも着流しでいたのは、この病気のせいだと言われている。 北斎の絵のような光景が江戸の町で時々目にする光景であったとするなら、男なら誰しもこの蚊にだけは刺されたくないと思うだろう。 この病気を媒介する蚊の繁殖が地球温暖化によって北上する可能性を思うと真剣にならざるを得ない。嫌な感じである。 |
検査入院した。 二十年ほど前、禽舎の屋根を作っていて墜落し、それ以来の入院である。 その時、婦長(今師長?)さんが「ふっふっふっ、そこは女の人がお産で割るところですよ」と笑った。 骨折したのは恥骨結合という骨であった。 以来、天気が悪いとその恥骨結合がシクシク痛むので、私は恥骨で天気予報が出来る人間と化したのであった。 入院はそれ以来のことである。 その時と異なり、今度の入院はどこにも痛いところがなく、狭心症がどこで起きているかを調べるためのものだから、ま、二泊三日の体験入院ツアーのようなものである、と、思うことにして、ipod、ノートパソコン、入院当日はユースのサッカーゲームがあるのでカシオのポケットテレビ、デジカメ、ボイスレコーダーなどを持参して 3月28日1:30病院に到着した。 僕の狭心症は、「冠攣縮性狭心症」というもので、ストレスが起きると、冠動脈が縮んで血液が流れなくなり苦しむというモノである。ストレスは、俗に言われる人間関係や、仕事などばかりでなく、寒さや、入浴や、排便や、嫌な夢を見るとか、殆ど何でもありである。それがストレスなのだということも今回初めて判った。 で入院検査の前準備として、心電図、レントゲン、採血の後、6F11号室の6人部屋の奥、窓際が定位置と決定。 ベッドに腰掛けると窓の外には目線の7割が空、3割に街の屋根が見える。遠くに池上本門寺。明後日には帰れる事が判っているので、目に映る光景も、余裕の光景として美しい。 4:15 「剃毛します」と看護師さんがカミソリを持参したので、「おまちなせぇ」と自分で剃る旨伝える。 これで一安心と、思ったら「後で点検します」だって。 さらに、「T字帯を買ってきておいてください。ふんどしのようなものです」と続けて言ったけれど、この買ってきておいて下さいと、ふんどし・・・・の間にコンマ0数秒の間があった。 この言いよどんだ「間」は、職業看護師としての公と、ひとりの乙女の個としての恥じらいがなさしめたギャップのようなものであろうと思う。 そいうわけで、ゾリゾリを終え、T字帯を買ってくると、次に明日行なわれる心臓カテーテル検査の説明があった。 手首の動脈からチューブを心臓まで入れ、造影剤を流してモニターを見ながら冠動脈が詰まっていないかを調べる。 詰まっていなかったら、今度は足の付け根から別のチューブを入れて、そこから人為的に痙攣を起こさせる薬を流し込み冠動脈のどこがどれぐらい痙攣を起こすかを調べるのである。 その時、不慮の事故とか、場合によっては死亡することもある、と言うことを了承する署名が必要だ。 このリスクは、0.02パーセントだそうな。 こう言うとき、漫画描きはどう考えると言えば、この数字は「全体」の0.02パーセントという意味だから、それを一人が起こしていたとするなら、その人は100パーセントと言うことになる。明日やってくれる人が一人で背負った0.02パーセントなのかも知れないぞ。と急に怖くなっちまうのであった。 この恐怖を和らげてくれたのは、ユースの試合と、ipodのショスタコビッチと都はるみであった。 |
29日06:00 周りのノイズで目が覚める。 高齢者六人の病室は、夜の移動動物園のようにノイズに充ち満ちている。 湿った咳をし続ける者、放屁するもの、鼾、歯ぎしり、「あーああ、しまった」など様々な寝言、等々オラトリオで目が覚めた。 それではと、とりたて特技はないけれど、何かで参加しなくては同室の先輩に申し訳が立たないと、鼾は思うままにはならないため放屁で参加する。 夜の動物園が、夜行性の生きものたちが野生を取り戻して咆哮する様に似てて、とてつもない活気で充ち満ちているのである。 昼間は、体調を聞きに来た看護師が「胸はドキドキしませんか?」というと、「看護婦さんの顔を見たらドキドキします」「ふふふ、お上手ね」とたわいもない掛け合いの笑いが平和を保っている。 時には深刻な病室を柔らかく包む笑いなんてものはこのようなものだし、これ以上のものを求めてもいないことを実感させられる。笑いを生業とする私には、高い笑いを指向し、求め続けることなどいらぬこと、と思い知らされるのであった。 とはいえ笑いはその国の文明度を現わすものだから、安倍が総理の国だものこれでいいのだ。とも思う。 昼間の病室では、そんな笑いの一方で一日中全く口を開かない人もいる。カーテンを閉めたままで時間を過ごしている。寝ているのかなと思うと、夜はテレビの明かりがカーテン越しに見えているから、自ら訳あって閉ざした日々を過ごしているのだろう。 そして意識が無くなった明け方に、再び生気が蘇り、深夜の移動動物園と化す。 というわけで、朝食半分(半分で用意される)昼食抜きで、いよいよ1.00、褌じゃなかったT字帯をつけ手術着に着替える。施術は、2時からだ。 車椅子で心カテーテル室と言うところに連れて行かれる。 ベッドに上向きになると、帝国劇場の緞帳を上げるようにT字帯が外された。 何も着けない姿で仰向けに寝かされている。 「ざまぁないなぁ」と言うと、手術着で身を囲った施術の人が「HP見ました」だって。 なんだ、K先生だ。 てっきり外来で診ていただく先生と、カテーテルの施術をする先生は、違うと思っていたのでびっくり。 先生は、目障りだというように巻き寿司を作るかの如くガーゼ(実際には見えないから判らないけど)で包んだ。この行為がもう五分続いたら間違いなくガーゼが足りなくなっていただろう。 左上の視野には、大きな黒い薄型液晶が二面、三次元に自由移動できる装置に掛けてある。 一面は、X線が映し出され、もう一面は心電図が映し出される。 渡辺和博さんは、「キンコンがん」でこの時液晶がTFTかVGAかに関心を持ったようだけれど、私は、心電図の上から五番目のグラフが、自分の持っている携帯心電計のグラフと同じだなぁ、とそちらに心が行った。 K先生は、若い技師やアシスタントにてきぱきと、かつ明確に指図する。こういう様を見ると、ただマグロのように横たわっているだけしか能のない不安な患者は、とても安心するものである。 「おぬし出来るな」と思えるのが嬉しいのである。 「先生あんたでよかったよー」と嬉しいのである。 左手首に麻酔をして動脈を切り、そこからチューブを入れる。手首から心臓まで曲がりくねった血管道中をX線モニターを見ながら差し込んでいくのだ。 ところが、この作業をなんと、まるで台所の下水管を掃除するかの如く両手を使い目にも留まらぬ早業でシャシャシャーッと、チューブを差し込んでいくのだからたまげたねぇ。こいつぁおどろいた。 「お主いずれただ者ではないな」 肩の辺りまでなにかぬるっとしてきた。動脈から漏れる血だ。と、思ったけれど、後にその辺りに血液の固まった痕跡はなかったので、あの時のヌルッ感は、造影剤?かな。 なんたって、手首の動脈を切るのだから血圧分の圧力で血が噴き出すはずである。チューブを通してもチューブの隙間から吹き出すのは、水道の蛇口に指を入れても隙間から吹き出すことで想像はつく。どんなパッキンを使っているのだろうかと、半ば興味、半ば心配で、見えない箇所を想像する。 しばらくして先生が「あー、予想通りなんにもないですねー」と言われる。 これは、冠動脈に詰まりがないという意味で、血管が詰まる事による狭心症ではないと言う意味だ。 「では、足の付け根から心臓に痙攣を起こさせる薬を入れます、これを三回に分けて徐々に増やしていきます」と患者である私への説明と、周りのアシストしている技師や看護師たちに確認するように言われた。 と、ほとんど同時に、いつもの狭心症発作が現われ始めた。 「あ、来てます来てます」「あー相当苦しいです」と私。
先生「あーこりゃぁ重症だわ」 「顔色見てて」と看護師に。 続けて「これで停めましょう」「ニトロ入れて」とニトログリセリンの量を指図。 やがて苦しさは雲の晴れるが如く消え去っていく。 そう言うわけで、かくして心カテーテル検査は終了した次第であった。 結果は、心臓を取り巻く冠動脈のうち、最も重要な役割をしている左前下降枝(ひだりぜんかこうし)と呼ばれる冠動脈のほとんど全体が痙攣を起こし、血流が止まる、そういう狭心症が私の狭心症であることが判明したのであった。 病室に戻ると、使用した造影剤を尿から排出させるために点滴。これからしばらくは、点滴ボトルをぶら下げる為のキャスターと共に移動することになる。 このスタイルには私は、僅かな願望と思いだしたくない思い出があるけどここでは関係ない。
ボトルキープマン ボトルキープマンという言い方は、当時ダイヤモンド社の編集者だった長井弘勝さんが、東南アジア旅行中、爆竹で鼓膜が破れ入院した折、見舞いに行くと、キャスター付きの点滴姿で現われて「ボトルキープマン」と言った。 爾来、このボトルキープマンに妙な親近感が芽生え、いつかどこかで一度ボトルキープマンしてみたいなぁ、となった。 サンドイッチマンはやだけど、ボトルキープマンはいい、いずれ遅かれ早かれすることにはなるだろうけど、出来れば深刻でないタイプのボトルキープマンをやってみたものだなぁ、などと思っていた。 実は、私にはもう一つ子供の頃からの憧れグッズがあり、それは松葉杖であった。 松葉杖は妙に切ない。 紺絣の着物に松葉杖と来たらもう身震いするほど美しく切ないのだ。 というわけでこの二つがいつかしてみたい未体験グッズと相成って思い焦がれていたものであった。 松葉杖は、先述の恥骨結合骨折入院の時、仲間の矢尾板賢吉さんの結婚式の為、ついに実現する機会到来とばかり、病院に頼んで松葉杖を購入し、出席したことがある。 残る未経験は、ボトルキープマンのみであった。 かくしてそのボトルキープマンがこの度現実とあいなったわけであった。 カミサン手術の夜中3時頃だったろうか、いきなりあと三ヶ月の命だと宣告され、眠れぬまま病院通路にある喫煙室で涙に濡れながらタバコを吸い続けていると、薄暗い廊下の彼方からキャスターの車輪を軋ませながらボトルキープマンが現われた。 「いやー鼾がうるさくて眠れないよー」と彼。 窓の外には十三夜の月が明るかった。 「いやー綺麗な月ですねぇ」と続ける。 「僕には綺麗には見えません」 「お目が悪いんですか?」 「いえ・・・・・」 彼は私の顔を見てハッとしたようで。 「失礼しました。看護婦さーん」 と照れ隠しに看護婦を呼びながらボトルをキャスターで揺らしながら去っていった。 翌朝、再びその喫煙室に行くと、別のボトルキープマンがいて 「大変だったんですね」 という。 「・・・・・」 「灰皿にうずたかく積もっているタバコの銘柄はあなたのですから、さぞや大変な思いをされたんだろうと・・・」 病院のボトルキープマンは、患者の天才、人生の達人たちである。 ------------------------------------------------------------- 3月29日 朝食 ごはん150c みそ汁 刻み昆布の炒り煮 干し椎茸の和え物 低塩鯛味噌パック 牛乳200ml 3月29日 夕食 ごはん150c 豚シャブ グリンピースのおろし和え ふりかけ フルーツ 3月30日 朝食 ごはん150c みそ汁 里芋の黒ごま煮 ほうれん草とシメジお浸し caふりかけ のりかつお 牛乳200ml |
漫画家のYさんは現在免停中である。 僕は去年免停講習を受けて、その2日後に横須賀で駐車違反とやら(というのも本人はそう思っていない-往生際よくナイノコト)で3点。残り3点でまた免停だあ、と思っていたら、ところがドスコイ。Yさんの言うことにゃサノ言うことにゃ、残りは1点だよ。と宣わる。 おいおい、こりゃ堪らん、と調べてみたらお説の通り講習を受けたらチャラになるのではなくて、前歴が残っていて、今度は4点で再び免停だそうな。かくして再びあの忌々しい交通安全協会職員のために人権費(彼らがそう言った)を払うハメになるというのである。さらに前歴二度になると次は2点で免停、と順に厳しくなるのだというのだから大変だよお立ち会い。 4点のうち早速3点は、取り上げられているので、残るは1点というわけだ。 ただし、この残りの1点を大事にして、横須賀で違反をした日までの丸一年間経てば、チャラになって再び6点からスタートになると言うことらしい。 もういかなる違反も許されない状態である。そこで横須賀で違反した日はいつなのか、その日が来るまで残り日数を指折り数えて暮らそうじゃねぇか、と去年の千年日記を見た。 10月13日 晴れマーク。 洗濯。 失敗のズボンも洗う。 午後横須賀へ。 三笠でレッカーされる。12000+400円3点の違反で18000円。 金正日よりケーサツ嫌い。 とある。10月13日までの10ヶ月だ。 |
当日の漫画集団員 後列右から矢尾板賢吉、西村宗、多田ヒロシ、藤子不二雄 スズキ大和、二階堂正宏、前川しんすけ、岩本、前列、所ゆきよし ちばてつや、小山賢太郎 |
赤塚さんが入院した頃、カミサンも部位は異なるものの同じ癌で入院していたこともあって、赤塚夫人真知子さんとは、たまにいわば情報交換のようなことをすることがあった。 その後赤塚さんは、別の病気で意識を失ったままになってしまい、一度だけ相談らしきことがあった。それは、いろんな人がいろんなことを言うけど、どう思うかというもので、相談と言っても彼女の意志は、はっきりしていて、何が何でも延命治療をすること、さらに病院の特別室で看護すると言うこと、であった。 だから、新聞に確かアメリカで何十年か意識不明であった人が意識を取り戻したというのがあったことを告げ、日進月歩で進んでいる医学の世界だから、明日どんな医療が見つかるか判らないよ、生きてさえいれば。諸々の状況が許すなら、真知子さんの思うとおりにした方がいいと思う、と答えたのだった。 「不二夫ちゃんが目覚めて、大部屋にいたんではね、私の取り分亡くなっちゃったけど・・・・」と笑っていた。 なにせ、あのやなせたかしさんが同じ病院に入院していたことがあって、「赤塚のいる特別室は高いぞぉ」といっていたぐらいなんだから。 真知子さんが亡くなってから、何かの記事で、その長く意識不明で意識が戻った人の記事を切り抜いて彼女は財布に入れていたというのを読んだ。 カミサンが死んだとき、肉片でいいから生きていてさえくれれば、話しかけられるのに、と真剣に思ったものである。 赤塚さんの見舞いにいった時、彼女は、一言いう度に、赤塚さんの顔をなでて顔をすり寄せるようにして話しかけていた。 きっと彼女は幸せであったろう。と信じてやまない。 |
長新太さんが亡くなった。 25日のことである。私は、一度しか話したことがない先輩なのだが、通夜には、十年以上も逢ってない、古い友人たちがきていて、懐かしかった。 その席で、驚くことを聞かされた。 この10日、永島慎二さんが亡くなっていたというのである。 これは、長さんのことを報らせるために永島家に電話して判明したという信頼できる人からの話だから間違いはないだろう。 結局、本人の意志で誰にも報らせなかったと言うことらしい。 実は先日、古本屋で自分が連載していた頃の「ガロ」のバックナンバー十数冊を見つけて、買ったばかりだった。 その表紙が永島慎二さんだったのだ。 さらに驚いたのは、未確認だが、しとうきねおさんも亡くなっているというのであった。 二人とも若い頃、共に漫画集団で遊びまわった思い出は尽きない仲間であった。 |
先日、杉浦幸雄さんの一周忌法要があり、夜は京王プラザで「偲ぶ会」をした。 その時、挨拶に立った三遊亭円歌師匠が、杉浦さんや漫画集団との馴れ初めについて話をした。 それによると、亡くなった西川辰美さん(女中のおとらさんなど)の弟が噺家になりたいというので、当時、歌奴だった円歌師匠の許に弟子入りしたのがきっかけだそうな。 残念ながら、その弟子入りした西川さんの弟は、自ら命を絶ったのだと言う。 実は噺家の自殺は、意外と多い。 私の知人、三遊亭好生さんも自ら命を絶った。 1981年 7月9日、春風亭一柳投身自殺 1984年 1月31日、林家小染車に飛び込み自殺 1999年 4月19日、桂枝雀自殺を図り、のち死亡。 2000年1月、桂三木助、自殺 挨拶を終えて降壇した円歌師匠にこの話をしたら、すかさず 「漫画家が自殺しないのは、漫画家はバカだからだよ」 と宣わった。 そして一瞬まずいと思ったか「バカだから杉浦先生は俺を可愛がったんだよ」とホローした。 噺家の自殺原因はほとんどが「芸に行き詰まって」ということらしい。 漫画家には行き詰まる芸はない。もし作品に行き詰まって悩み、自ら命を絶ちたいと思うようなことがあったら、自分を見つめるもう一人の自分がいて、いろいろ想像し、自分を笑い飛ばすような思考が働き、やってられねえ。になってしまうに違いない。 芸は演ずる当事者、漫画は傍観者だから、である。 芸に悩んで命を絶つよりも、自らを嘲笑しながら長生きする方がしんどいことは間違いない。「楽な」噺家の方が確かに賢い。 はい、お利口さん。 |