その4       

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ゴビ砂漠の砂  200506

新しい冷蔵庫は、電気の消費量がまるで違うというので十数年使った冷蔵庫を、動かすことになった。
 電機屋のお兄さんが、えんやらさっと動かすと、冷蔵庫の下から、敷いた覚えもない厚手の黒い絨毯が現われた。
 スリッパでそっと動かすとその黒い絨毯は、角がゴビ砂漠の砂のようにサラッと崩れた。
 絨毯と思ったのはネズミの糞であった。
 その時、僕はしみじみ思ったね。
 「あーよかった。ネズミが健康でいてくれて」
 我が家の食い物が、ネズミの糞を健康なゴビ砂漠の砂にしていたのだと思うと、嬉しくて涙が出る。
 それはそうだろう。考えても見給え、もしあのゴビ砂漠の砂が、砂でなくブルーベリージャムだったとしたら、スリッパにへばりついたブルーべリージャムを想像するだけでも身の毛がよだつじゃないか。
 これからも時に現われるネズミ君のために、彼らが健康でいられる食物を用意し、農薬たっぷりの中国産野菜など置いてないからどうぞ安心して召し上がれ、そしていつまでも健康なゴビ砂漠の砂であってくれよと願うのであった。
 それがとりもなおさず己の健康にも寄与するのだと堅く思うのでありましたな。
 



岡部冬彦さん逝く 20050517

中央が交通遺児育英会に寄付をする岡部さん。
左はソニービルの賀田さん、右は交通遺児育英会の玉井義臣さん。
漫画集団は毎年、ソニービルで手弁当のチャリティーイベントをやっていた。 
 18日、ご子息岡部いさく氏より「昨日朝、・・・」と電話を頂いた。
 昨年鈴木義司さんが亡くなったとき電話で話したのが私にとって岡部さんの最後の声になる。
 私がまだ船に乗って投稿漫画を描いている頃から、なぜか目を掛けて下さって、ある日、銀座のバーへ連れて行っていただいた。
 カウンターに岡部さんと並んだ私は、これが夢に見た「銀座のバー」か(どこだか覚えていない)、それも岡部冬彦さんといる。そう思うと身震いがしたね。
 そこでは、漫画の話など聞かせて頂いたのだろうがあまり覚えていない、飲めない私は、手持ちぶさたで、相づちをうちつつ、目の前にあるビールを持って岡部さんのコップに注いだ。
 岡部さんはこちらも見ずに
 「漫画集団でそんなことしたら嫌われるよ」
 この一言は効いた。
 一瞬で恥ずかしさがこみ上げてきた。
 というよりそう言う行為が恥ずかしいことだと想い出したのだった。
 自らを下位認知、隷属、べんちゃら、取り入り、etc
 四六時中、階級章を見ながら生きている者にとって、年長者に杯注いだら嫌われるという世界は、異文化、異次元の世界に他ならない。
 なんと素晴らしい。
 だいたいがどこの世界でも先輩を敬えとか、礼を欠くなとか躾けられて、行儀の良さはタバコの火を付けることとか、杯が空になったら酒を注ぐとこととかに表わされることが多いのだ。
 それをそんなことしたら嫌われるという世界があるんだから驚いちゃうのである。漫画集団て、なんてとこだ。と、と思っちゃうのである。万歳漫画集団。である。万歳異次元の世界。である。
 と、いうわけで、まずは漫画家にならなくっちゃ。である。
 あの時、銀座の片隅でそう誓っちゃったね。
 私は。
 
 

 

10人程度の、岡部さんらしい品のある祝賀パーティだったなぁ。、

おめでとう北島康介さん

2004.08.20

今年(2004)の夏は、暑かった。
あまりの暑さに心なしか廻り灯籠のスピードが速いように思えたほどであった。

そんな中、北島康介さんの金メダル。
日本中が沸いた。
実は康介さんの母上より子さんは、かみさんの中学時代からの親しい友人で、私は、そのより子さんの息子さんが水泳をやっていることは知っていたけれど、それが康介さんだとは夢にも思っていなかったのだった。
 今年3月、原宿個展の時、もう一人の友人と来てくれたより子さんに、こともあろうに、「息子さんは未だ水泳をやっているのですか?」などととぼけたことを言ってしまっている。
 それに対して彼女は「ええ、今海外です」
 私は、それでもまだ、お趣味のお水泳、ま、せいぜい国体かな?てなことを勝手に思っていたのだった。
 より子さんは、帰り際に「応援してやってください」と言って画廊を出た。
 画廊の人が「北島さんて北島康介の事じゃないですか?」
 ここで初めて私は、気が付いた。
 なんたる迂闊。どれだけ息子のことを話したかったであろうに・・・・
 帰宅して、娘や、義弟に話したら仰天、大騒ぎ。
 「子どもの頃うちに来て遊んだわよ」てなことになる。
 そして、「今頃ママが生きてたら、きっとアテネよね」
 それは間違いない。
 「あーた、アテネのより子のとこに行こうよ?いかない。そう、じゃお留守番お願いね」
てなことで、今頃はアテネで顔にペインティングして、「コースケー」などと騒いでいるに違いない。
 折しも康介さんが最初の金メダルを取ったのがお盆の中日。
 私は、送り火のきびがらをたっぷりはずんで、アテネの聖火のように明々と焚いてかみさんを送ったのであった。


         


鈴木義司さん葬儀

2004.08.20

 また訃報で、つまらない。
 みんな親しい人ばかりが去っていくからつまらない。
 義司さんとのことは、また折に触れて書くこととするけれど、鈴木義司さんはよく「俺は石原裕次郎より足が長いんだ」と足の長さを自慢していた。
 俺だって長いや、と思っていた私は、ある時、どこかの座敷で「んじゃ」っとばかり両足を投げだしてお互いの右足を相手の股の間に差し込んだ。
 なんと義司さんの右足の指は私のタマに触れているのに、私の足指は義司さんの鼠蹊部と膝の間で悲しそうにおいでおいでをしてもがいているだけだった。
 なんでも月刊「平凡」だかで裕次郎と一緒になったとき測ったんだそうで、その時も互いの股間に足を伸ばしたかは聞かなかったから、裕次郎のタマに触れたかどうかも定かではない。
しかし、裕次郎も義司さんより足が短かかったと言うことは、私と同じだということで、だから何だと言われても「それだけ」というしかないから困るけれど、裕次郎も私も義司さんと足の長さを測った仲だということなのだ。
 いくら足が長くても、亡くなっちゃぁ足だってボケツーとぼけちゃって無くなっちゃってんだからきっとつまらないに違いない。
 もっと長生きしてくれりゃよかったのに・・・・・・
 鈴木義司さんは、2004年7月17日午後2時45分悪性リンパ腫で亡くなった。
 同23日、葬儀。お骨を拾うとき、それは見事な大腿骨であった。  08.20記



         

杉浦幸雄さん葬儀

2004.06.21


葬儀委員長の加藤芳郎さん

2004.0618日、杉浦幸雄さんが亡くなった。作品に自信がなくなったら杉浦さんとこに行け、自信があるときは横山さん(隆一)とこに行けというのが漫画集団での定説であった。杉浦さんは褒めまくって自信をつけてくれる方だったから杉浦家を辞して家宅に付くときは、自分は世界で一番上手い漫画家だと思うようになっているから不思議であった。

 一方横山家を訪ねると、これでもかとあの才能を見せつけられて、すっかり自信をなくしてしまい、帰りの横須賀線では、いつも打ちひしがれた気分で電車に揺られるのであった。

 そんな杉浦さんは、私の仲人でもあった。カミサンの葬儀の時にいらしてくださって、「先生、僕が仲人した夫婦は離婚した者がいない、といつもおっしゃってましたが、死なれちゃったです」というと、「うん、僕は二人も死なれちゃってるからねぇ」と言われたのだった。


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杉浦さんの葬儀に行く途中、新宿から地下鉄に乗って、つり革にぶら下がっていたら、斜め向かいに座っている男がちらちらこちらを見ている。
多分彼も杉浦さんの葬儀に行くどこかの編集者で、私と面識がある人なのかな、と思っていた。
やがて、しばらくするとすっと中腰で立ったかと思うと、失礼でが・・・と言って二つ折りした紙片を渡された。見ると・・・・・
それが下の紙片であった。

ありがとうございました。

人は、まず人の顔や名前を忘れるようになる。
そして次にチャックを上げるのを忘れるようになり、
最後に、チャックを下げるのを忘れるようになる。


         

鷲と戸川幸夫さん

2004.05.06


2004.5..3
 昔、そう、ずっと昔、毎朝1時間ほどパチンコに行って、帰りに荒川にたむろする鴨を見ながら、我が身を省みては、午後から深夜まで漫画を描き、それが溜まると雑誌社に持ち込むという毎日が続いていた。
 なんとか釜の蓋が開いた頃、鴨だけでなく子供のときから憧れていた鷲を、あの赤ん坊まで掠うという巨大な鷲を、いつか見たいものだと思うようになっていたのだった。
 そんな頃、古本屋で買った戸川幸夫さんの紀行随筆集に、鷲を見たという記述があった。
 北海道の稚内から国鉄で南に下がると北見枝幸が終着駅でそこから先は線路がない。
 さらに南には雄武という駅があり、そこから再び国鉄が延びている。だから北見枝幸、雄武間はバスに乗るしかなく、戸川さんはそのバスに乗ったのだ。
 左にオホーツクの流氷を眺めながらバスは南下する。ふと見ると、流氷の上にオジロワシが乗っていた。そこで戸川さんは、バスを降りて寒さも忘れて堪能するまでオジロワシを眺めていたのだった。
 やがて陽もかげってきたので次のバスは?と時刻表を見るとなんと先ほど乗ってきたバスが終バスであった。仕方がないので戸川さんは近くの集落まで歩いて、一夜の宿を頼んだ。
 村長は快く受け入れてくれて、夜、みんなが集まって「東京の話を聞かせてくれ」とせがまれた。
 いろいろと都会の話が弾んでいるうちに夜も更けて、解散となる。
 最後に村長が「こんな辺鄙なところ故、なんももてなすものとて無いから」と言って村人の奥さんを一夜の伽として側によこすという申し出があった。
 と書いてあった。
 私は、決心した。鷲を見に行こう。そして北見枝幸からバスに乗ろう。
 本にドッグイヤーして、カミサンに見られないところに差した。


 その頃、我が家に麻雀をしにくる編集者のなかに、なんと雄武出身のいることが判明。
「鷲はいるの?」「いーますよぉ」
「北見枝幸から雄武までは汽車はないの?」「ええ、バスだけです」
それ以上の話は、聞いてはいけない。どぎまぎして麻雀に負けては見透かされるし、そんなことは秘めてこそ価値を持つのだ。
かくして2月、生まれて初めて見る積雪、生まれて初めての北海道。彼方には生まれて初めての野生の鷲がいる。○○もいる。
 夜行列車は、終着駅雄武に到着。そのまま宿へ。
 宿の板張りの壁は、写真に見る番屋のような建物で、部屋にはオガ炭という大鋸屑を固めた燃料のストーブが轟々と音を立てて燃えていて、すこぶる暖かい。
 翌日、電話で話してあった役場の方が迎えにきてくれた。
 「もしですね」
 「はい」
 「雄武から枝幸行きのバスに乗ってですね」
 「はい」
 「途中下車したら泊まるところありますか?」
 「ないんでねえか」
 「うん(そうだろう、そうだろう)」
  「するとどこかに泊めてもらうしか無いですね」
 「そんなことないべ、タクシー呼べばええんだ」
 「・・・・」
 地元の人たちは、東京の話なんか知りたいんでは?」
 「んなことないべ、テレビ見てるからな」
 「・・・・・」
 だんだん自分が不機嫌になってくるのが判った。
 翌日私はさらに南下してサロマ湖を横に見ながら網走へ。
 そして斜里から宇登呂のオシンコシンの滝に出来たばかりのホテルに向かった。今年出来たホテルは、極寒の知床で冬季初めて営業しているホテルであった。工事中毎朝ヒグマの足跡があったというホテルである。
 客は、私一人。
 夜が更けるまで、「東京の話」をし、同席した猟師さんから知床の生きものの話を聞いた。
 その時の支配人が今年クリオネを送ってくれた高橋宏治さんで、現在斜里で多くの事業を手がけながら、町議もやっている。
 さて、帰京して、この話を先輩の岡部冬彦さんに話したら
「ははは、その本は戦前に書いた本じゃねぇのか?、鷲見たいんなら戸川さんに言っとくから、電話したまえ」
 というわけで、私の不純な動機については口をぬぐって戸川幸夫さんに電話した。
 戸川さんは、快く鷲が見られる羅臼町の町長村田吾一さんを紹介してくれた。
 村田さんは、戸川さんの「オホーツク老人」の映画化「地の涯に生きるもの」で羅臼を訪れた森繁久弥(羅臼に悪趣味な像がある)と交流があり。森繁をもって「羅臼に、親父二人あり。熊と村田」と言わしめた方である。
 さらにその村田さんに紹介されて、羅臼橋の袂でドド肉料理屋「高砂」をやっている高橋一さんの船に乗せていただいて流氷の鷲を見ることが出来たのであった。
  後に、「高砂」に掛けてあったその時描いた私の色紙を見ると、昭和42年(1967年)となっていたから、37年ほども昔の話である。

 同じ時撮った、羅臼の町近くの木にたくさんとまったオオワシの写真が日本野鳥の会機関誌「野鳥」に掲載され、多くのバードワッチャーは、なんだぁ知床に行きさえすれば簡単に鷲が見られるんだ。ということを知ったのであった。
 そういうわけで、戸川さんの紀行随筆は、私を、いささか動機は不純なもののバードワッチャーにし、自然保護に目覚めさせたことになる。
 その後、戸川さんが動物愛護協会の会長になった時、岡部冬彦さんから電話があって、「君は戸川さんに借りがあったよなぁ」「ええ、岡部さんにも借りばかりで・・」「よーし、じゃ動物愛護協会の機関誌に漫画連載してやってくれ」
 かくして、その連載は、今も続いている。
 今年(2004年)5月3日、あの37年前を思い出したくて、通夜に参列させていただいた。
 
 戸川幸夫さんは、島民がヤマピカーリヤと呼んでいたイリオモテヤマネコを、発見者として世に知らしめた方でもある。

 ちなみに、北見枝幸から雄武までの間、いくつかのコタンがあり、いつだったかその貴重なフィルムをNHKが放映していたことがあった。


         

04.02.05 いつか見た絵ではありませんか

イラク派遣のニュースを見ていると、いつか見た光景だなぁ、と思います。
口で言うより、一度で判るようにしたくなるのが漫画描きの性でしょうか?
というわけで・・・・・・

きゅうそく蛇足:自衛隊さんの写真はカラーだから、モノクロの内にカラーがあるのは妙な雰囲気になって、悪くはないけど、コラージュのテクニック的にはモノにした方がごまかしがききますね。モノクロの古い写真には馬に乗った軍人が二人いたのですが、これを消しました。
きゅうそく蛇足:窓の内に人がいるので、自衛隊員の向きを逆して左を向いて窓の人を見ているようにしました。アップだと襟合わせ目が左前になるのでまずいけど、これだけ遠いと判らないですね。それに自衛隊の歩いている角度がだいぶ違っていたので「歪めて」隊列に合わせました。日の丸を持った少年がいい仕事をしてくれています。

         

       

03.06.20 不審船(工作船)を見に行きました

  このところ、どうも国内が右傾化していささかうんざりしています。
 大きな柱は、イラクと北朝鮮でしょう。
 この前の(03.04)「朝まで生テレビ」でこんなことを言ってました。西部劇の保安官がアメリカで、酒場でポーカーやってる悪漢がイラクのフセインと北朝鮮の金正日だと。んじゃ日本の小泉は?と誰かが聞くと、「保安官の馬」だろうだって。吹き出しちゃったね。
 小泉は、せめて保安官助手ぐらいにはなりたいのでしょうが・・・・・
 ま、まさしく小泉は馬でしょう。
 他のはシラミかダニみたいなもんだから、交代しようがないのですね。
 イラクは遠くの国だけど、北朝鮮はすぐお隣だから、気になって仕方がない。
 冷静でいられない理由の一つに、横田さんを始め、髭のおっさん蓮池などの辛さが見事にアピールされて、一種拉致ナショナリズムが出来上がり、北朝鮮バッシングに、「まあ、まあ」と言おうものなら、メディアもこぞって総攻撃するのです。
TBS筑紫の番組が、拉致被害者の会合を取り上げなかったと言うだけで、文春がエキセントリックに攻撃したり・・・・なんともはや。
 どうすればいいかという、つまり、外務省の田中審議官の説か、被害者の会の説か、結果的にいずれが北朝鮮を懐柔できるかの正解は無いのだから、両説尊重がメディアの役割では無いかねぇ。
 カッカ来て、北朝鮮バッシングだけでは、みっともない。こういう時こそ、立ち止まって、深呼吸だと思うんだがねえ。
 歳のせいだろうか・・・・  


正面
このシャープな船底を見ると、スピード本位の設計が感じられます。
実際33ノット(1ノットは一時間に1マイル(浬カイリともいう)走る速さ。
海上の一マイルは1852メートルだから、時速約60キロ。
ちなみに陸上の1マイル(哩)は、1.6キロメートルで海上とは異なる)
自衛隊の駆逐艦でも先端はともかく、中部の船底は平らなものです。
だから当然この船の復元力は弱くて傾いたらすぐにひっくり返って沈没する可能性があります。
それに比して自衛隊の駆逐艦は180度(逆さに)傾いても元に戻る能力があります。

この内に小型舟艇が入っていた
後部左舷観音開きを開いたところ 同右舷側


観音開きの中に搭載していた小型舟艇

側面
保安庁の巡視艇に威嚇射撃された弾痕

後部
後部観音扉には、偽装船名の名盤をはめ込むためのガイドがあるから、時と場所によって異なる船名を入れ替えてたらしい
小型舟艇の後部
右舷
左端に見えるのが小型舟艇
さらにゴムボートまでもある。
全体に、この本船に目一杯戦闘用具、諜報用具を搭載していたという印象でしたね。


金日成バッジと肖像


日本財団(船舶振興会・競艇の寺銭で運営されている組織)
会長 曾野綾子名の日本語、ハングル、英語で
海に沈んだ北朝鮮の若者に捧る、と書いてあった。

逆版の文字。
これで船名を刷るための版
鹿児島県枕崎の地図があった。
どうやら鹿児島で「お仕事」をしていたらしい。
日本船に偽装するための「安全第一」と書かれた銘板や、レーダーモニター、ハッチの扉などが見える。

緑色のスイッチボックスにハングルで「自爆」と書いてある。
最後に彼らはこのスイッチを押したのか・・・・
若者たちは「尊敬する金正日さま」と言って死んでいった?
ほんのちょっと前、日本では「天皇陛下万歳」と言って死んでいったんだよ。




搭載されている武器
武器は、大小様々、機関砲からロケットランチャー、バズーカ砲、それに機関銃など多くの小火器類。
これらを見ると、船中が武器であり、空いてるところに麻薬や偽札を積んでいたのかと思うと、まるで犯罪船、海賊船だと思えてくるですね。
国家がやっているのだから、これはまごうことなく間接侵略でしょう。




日本製非常食缶詰、とりめし、赤飯。
ヤクの取引がうまくいった時、赤飯で祝った?
 
8×30という双眼鏡は、バードウォッチャーが最もよく使う双眼鏡なんですよね。
62式と書いてあるから、62年製か?戦後の日本ではこんな表記はしないから中国製て゜しょうか?
衣類

ダイビング用品 奥に水中スクーターが見える
 
フィン、このマークはアクアラング製品
レギュレーターもアクアラング製で、もちろん現在のアクアラング社カタログにはない。

そこでアクアラング社に問い合わせたところ、以下のような回答をいただいた。

現物が手元に無いので定かでは有りませんが、マーク・形状などから見て
当社製であるように思います。

レギュレーターは、1987−8年ごろの製造販売で、
当時定価4万円くらいで販売されていたと思われます。

足ひれは、1980年以前から製造販売し、現在も継続販売中です。現行定価11000円です。