アサヒビールにもこれは無いだろうなぁ!
「あまつかぜ」は、1965年、三菱長崎造船所で就役した我が国最初の対空ミサイル、ターター搭載の駆逐艦の名前である。 だから、これは約40年前に描いたコースターということになるわけだけれど、二三日前、机の引き出しをひっくり返していて、現われた。 私は、この前年の64年から、艤装員として長崎に転勤になり、稲佐山の寮で生活していたのだった。 なんたって日本最初のミサイル駆逐艦という最新鋭艦だから日本各地の海上自衛官の内から優秀な者ばかりが集められていた。 喧嘩になると「やい、てめぇ優等賞だと思って威張るんじゃねぇ、俺だって優等生だ」なんて啖呵が飛び交うことになる。 艦の雰囲気は、それはエキサイティングで、就役するとただちに渡米してミサイルの発射試験をする事が決まっている。だから誰もが希望に胸膨らみ、日々興奮に充ち満ちていた。 着任の所感なんてのを書かされると、皆、「なんたる栄誉」、「しっかり役に立ちたい」なんて聞いた風な言葉を並べるのだった。 私は、となると、この転勤は希望したものでもなく全く寝耳に水で途方に暮れていたのだった。 というのが、もうこの頃は漫画家になる決意をして、仮病を使って前の大きな艦を降ろしてもらい、YC-01という港でブイを敷設する船に勤務していたのだった。 船長は事務官で、夜はいなくなるから後はしたい放題。 留守番のおばさんでもいればいいというそんな船である。 だから海上自衛隊制服組としてこの船のポジションは、艦船勤務では使い物にならなくて、落ちこぼれた者とか、退職希望者が一時身を置く、とか、そんな位置づけの船なのだ。 しかし私にとっては、毎日外泊して漫画を描いていられたし、仕事がない時は、拾ってきた猫の仔にネズミの捕り方を教えたり、と、そんな毎日が過ごせる別世界であった。 で、猫の仔にネズミの捕り方を教えたのはいいが、寝ている私の枕元に獲ったネズミを並べて自慢するのには閉口した。 仕方がないから指でネズミの腹を割いて食い方を教えたり、と、まあ楽しい天国のような毎日であった。 そんな時、「あまつかぜ」に転勤、ときたもんだ。 そう来たもんだから、途方に暮れたもんだ。 で、先述の着任の所感に、海上自衛隊批判、自民批判、政治批判、を書き連ね、ターターの発射管が十字架に見えると書いたら、翌日副長から呼び出された。 「これを警務隊に見せたら、君は一生自衛隊ではうだつが上がらないぞ、どういうことなんだこれは?ええ?」 「実は・・・」 と本当のことを言って艦を降ろして頂きたい旨を話したのだった。 「着任したばかりでそうもいかん。ともかく来年艦の引き渡しを受けて、ターターの試験のため渡米して帰国したら降ろしてやるからそれまで辛抱しろ」ときた。 こちらは一刻を争いたいとおもっているのに、来年のいつになるかもわからない話ではまずい。人生の一大事である。そこであいつがいたらろくなことがない、という事をするしかミチはない。と選択したのがサボタージュであった。 みんなが寮に籠もって勉強している時、毎日外出して遊び回る。 外出すると決まって床にピーナッツを敷き詰めた「ジャマイカ」という喫茶店で制服を私服に着替えさせてもらって、ダンスホールに行く。 そして空腹になった帰りは、「ロジーナ」というイタメシ屋で腹を満たして帰るのが日課になっていた。 若いここのオーナーはしょっちゅう夫婦喧嘩をしていて、いつも仲裁させられていたっけ。 これを書きながら、長崎を検索したが、「ジャマイカ」「ロジーナ」共にヒットがなかったのはなぜだろう? 後に漫画家になって、漫画集団の清水崑(かっぱの)さんが長崎出身だったので、長崎くんちに招待されてみんなで行った時、「ロジーナ」は大きなレストランになっていて支店もあった。一方喫茶店「ジャマイカ」の店舗も増えていて、いずれのオーナももう店には出ていなかった。この時逢ったかどうか記憶が定かでない。 さて、そう言うわけだから、私は、仕事中でも「漫画発生装置」と書いた絵の具箱をもってブラブラ、ブラブラ。これでもかこれでもかとばかりアピールしていたのだが、その甲斐もなく、とうとうアメリカまで連れて行かれたのであった。 渡米前に、あちらでのパーティ用にアサヒビールを搭載することになり、アサヒビールが特注のコースターを作ってやる、といってきたらしく、なら役に立たないあいつに描かせろ、ということで、描いたのがこのコースターである。 しかし、白状すると、まったくこの艦について勉強していないので、艦が自衛隊に引き渡されて走り出し、当直の長をやらされても何にも知らないのだから、実に辛かった。 全く自信のない仕事をやらされるのを周囲に見られるのだから辛い。 シロウトがジャンボ機の機長をやらされているようなもので、遙かに知識の高い下の者に任せるしかないわけだ、かといって知ったかぶりをしようにも私が知識がないことはみんな知っているのだから、明らかに軽蔑の目線が鋭く刺してくるのが判る。 これはしんどいものであった。 |
オーストラリアのDrからこんな手紙が・・・
72年は横井庄一さんがグアムで発見された年で、
74年には小野田さんが帰国という背景があります。
2003.1.24
2003年1月17日
拝啓
日本語は下手ですけれども、間違いを許して下さい。
私はnewcastle大学の歴史学科で日本史教えておりますが、研究としては未帰還者に対する戦後の日本の反応について興味があり、博士論文をこのテーマについて書きました。論文の中で、議論を支える漫画を使いました。その漫画の中で、岩本久則さんが描いた、週刊読売1972年2月12日にでたものがあります。
論文はLondonにあるRoutledge Curzonという出版会社に出版される見込みがありますので、岩本さんの漫画の複製する許可をお願いいたします。(copyright permission)。勿論ん、値段があれば払いたいので教えて下さい。
本のタイトルは”Japanese Army Stragglers and Memories of the War in Japan,1950-1975”になって、研究発表なんですから、500冊しか出版されないと思います。本の値段は多分AU$120ぐらいでしょう。2003年12月ぐらい出版すると思います。
こんな下手な日本語で書いて、申し訳ありません。お忙しい所、この手紙を読んで下さいましてどうもありがとうございました。
よろしくおねがいいたします。
(原文のまま)
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2002.09.08 9.11を向かえて追悼フライトをした
MSFS2002、搭乗飛行機には一次大戦時のカーチスを選んで飛んだ。
理由は、足が遅いことと、なんとなくNYという街には合っていそうな気がする。
それにジェットではあの事件を想起させるようで荒っぽすぎる。
それに比してレシプロのカーチスはパタパタと、まるで0半のオートバイのようなやさしい音を出す。
実際に飛んでみると(もちFSだけど)自由の女神ってこんなとこにあったのかぁ、
って感じで大変位置関係がよくわかる。
カーチスのコックピット
ツインタワーの後は整地されていた。
同じマイクロソフトのFS2000の時は、にゅっと二本のビルがそびえていたけど。
2002.07.25 合掌・山本直純さん
以前、産経新聞に「ルートさん」という4コマ漫画を連載している頃、同じく阿川弘之さんが小説「軍艦長門の生涯」を連載していて、原稿取りのアルバイトくんは、その小説の挿絵を描いている画家の家で挿絵を貰ってから我が家に回るのが常であった。(伊勢田邦貴さんか山辺進さんだったと思う) 時には、我が家に到着しても未だ僕の原稿が出来上がってないこともあり、しばらく待って貰うこともある。 そんなとき、世間話などする。 ある時 「挿絵画家○○先生の隣の家はよく夫婦げんかをするらしく、「あなたっ」とかなんとか声が聞こえてガチャガチャ音がしていたかと思うと、庭に放物線を描いてフライパンなどが飛んでいるのが見られるんだそうですよ。そいで、庭の芝生には鍋やフライパンや時計などが転々と並ぶんですって」 それを聞いて、どこの家も似たようなものだろうけどウチの方がまだ症状は軽いな。てなことを思ってホッとしたものだった。 そのお隣の方というのは、6月18日69歳で逝去された山本直純さんであった。 今思うと、いかに濃密な夫婦関係だったのかがよく判るのである。 |
2001.11.8日1時過ぎ、横山さんは鬼門に入った。 92才の大往生である。それもテレビを見ながら昼寝をしてそのまま帰らぬ人となったのだから、これ以上人が望んでも叶う事ではない。 と、思う。 記憶力も良く、言葉のタイムラグさえなく、いつも通りの仕事をし、「介護」などと言う言葉とは無縁な方であった。3日に逢った高知新聞の下岡正文さんによると、来年の漫画館に行くのに、嫌いな飛行機に乗るか、それとも新幹線と車にするかと、そんな話しをしたたという。 ご本人は、数年前から心臓を弱らせて入退院を繰り返していたけど、その病気とのつき合いにもなれて、毎日晩酌をやりながらこの分だと100まで生きるなあ、と言っていたし、誰もが結局創設者の横山さんが全員を看取るんじゃねぇのか?なんて噂をして笑ったものである。 6日に鈴木義司さんから昏睡状態になったと連絡があり、医師は4.5日でどうなるかが判る、と言っているらしい、ともかく4.5日は大丈夫だ。とのことであった。 橋本大二郎知事と、松尾哲人市長にその旨メールをした。 9日の通夜は、光明寺という浄土宗の本山で、集団から出光、ヒサ、杉浦、スズキ、鈴木(義)、多田、秋、砂川、東海林、古川、西村、八島、矢尾板、二階堂、小山、などなど。 翌10日12時からの告別式では、多くのメディアがつめかけた。 橋本知事、松尾市長、その他高知からも沢山な人が来ていた。 漫画集団創設者、近藤日出造、杉浦幸雄、横山隆一のうち、杉浦さんだけになり、残された杉浦さんの弔辞がとてつもなく淋しそうで、かつ慈愛に満ちた言葉で胸が詰まった。 棺に花を入れ、最後の対面に小さくなっている横山さんを見て皆涙した。本当に小さくなっていた。身体と魂の総てを創作の情熱にして燃え尽きたのだ、とよく判る小ささであった。 出棺には、並み居る弔問客とカメラの垣根の中を集団員が棺をかつぎ霊柩車に乗せた。 火葬場で骨を拾いながら、こうなっちゃっても人々を「すげー」と思わせる作品が残るのだから、こいつぁ、豚にも、象にも、鯨にも出来ないこった、人間てなんて素ン晴らしい生きものだわい、と思ったのだった。 二日とも雨で、寒かった。 帰りのタクシーに同乗した年輩の方に、葬式は寒い暑い日が多いものですね。それに年を取ると葬式の回数が増えたような気がして・・・と言うと、私は、10月から6回葬式に行ってますよ。そのうち一回は京都で・・・だと。 仲間が亡くなって、いつも感じるこの、裾の薄ら寒い感じの寂しさ。 横山さんの集団と仲間によせる愛情と、それと同じ団員から横山さんに対する愛情は、当然ながら家族にはほとんど継承されない。 家族は家族の価値観が優先するから、これで集団員と横山家とは疎遠になるだろう、と実感したものであった。 そんなものがいつも感じる薄ら寒さなのかも知れない。 終わった・・・・なぁ。 |
2001.11.03 牛たちも言ってますよ。もっと鳥食えって
僕は、子供の頃から「書店性排便シンドローム」である。←コンナモンナイ つまり、「本屋に入るとウンコがしたくなる症候群」なのだ。 新刊書店、古本屋を問わずものの5分も経てばもよおしてくるのだから始末が悪い。それが最近は、本屋ばかりでなくパソコンショップや滅多に行かないビデオショップにまで感応するようになってきて、それらの店にトイレがないと「二度とこねぇぞ状態」になっちまうのである。 先日、近くの電気屋に行ったついでに6階のDVDソフト売り場を覗いてたら例によって腹具合が悪くなってきた。慌ててトイレに駆け込んで座ると、正面に昔懐かしい落書きがあった。たった一つだけ、ホンの小さく・・・ ここ数年、いや十数年じゃないかなぁ、見たことのなかった昔懐かしい落書きである。紙芝居のような落書きである。 最近の落書きは、やたら線が多くて明らかに劇画の影響、ストーリー漫画の影響が見えて薄汚い。下手なリアルさは汚物でしかない。 それに比べてなんと可愛いく、想像力をかき立たせてくれたデフォルメの神髄なるもの我等が落書きよ。そうなのだ。この落書きが漫画の衰退と共に消滅していたことに気が付いたのであった。 この頃の子供は、この絵を知らなくて描けないのでは?とフト思ったのであった。 「左カーブ、右カーブ、真ん中通ってストライク」と唄いながら描いたあのデフォルムに多くの少年たちは、いつか相まみえる時が来る日を待ちわびながら、実像に対して想像をたくましゅうしたものであった。かくして少年達は大脳皮質は発育し、芸術家がいるのである。小説家がいるのである。漫画描きの今日があるのである。 そうだ、紛れもなく狸の八畳敷」とこの落書きが日本二大デフォルメである。と断言することにしょう。 マウスで描ける「左カーブ右カーブ・・・・・」 と言いたいところだが、この頃のガキゃ想像する前にホンマモンのサイトに行っちゃうか。トホホ |
外務省の持つODAなどの利権(美味しい汁)は、旧田中派、経生会、現橋本派が手放さないできたそうですね。 真紀子いじめは、そんな外務省をあぶり出そうとしているから、ま、いろいろバッチイことが出てきては困ること、美味しい汁を吸えなくなることが一大事なのです。 汁のおこぼれは、けっこう大きくて、パクられた機密費のおっちゃんを見ればおわかりのとおりですね。あちこちの課で同じ汁が垂れていると考えるのが、この頃の日本では普通です。 なかでも鈴木宗男という御仁は、名を知らない人でも、国会中継でずつとやじっている下品な男と言えばおわかりでしょう。 一名、日本一ダーティな男とも言われています。 民主党議員がそう言ったら、告訴したんだけど、その通りだからと棄却されたと新聞に出てました。 外務省では、このおっちゃんがずっとうまい汁関係にいたんですな、今度副大臣がおっちゃんに挨拶に行ったそうですな。したら「今頃挨拶とはなんだーっ、遅いっ」と怒鳴られたそうです。オッチャン今はなんの関係も無い(もちろんおいしい外務委員はやってます) つまり、小泉総理、田中外務大臣がいては最も困る男というわけです。これを客観的に見ると「90%支持率の敵?」と言えるかもしれませんなぁ。 |
ジョン・グードルの展覧会(ニューオータニ美術館)に行く。ドデカイ初版本が数十冊展示してあって、これらは玉川大学の学長が最近購入したものというのだから、驚きだ。ジョン・グードルは19世紀の野鳥画家で、オーデュボンと時代を共にしている。オーデュボンの方が芸術性は高いが、グードルは優しいシアリズムとでも言うか、そうそう、昨年亡くなった薮内正幸さんの絵が近いかも知れない。 同じ日の夜、青山でCVMの講演を聞きに行く。いつかじっくりCVMについて話したいと思つているけれど、簡単に言うとアンケートによって環境に値段を付ける、つまりシマフクロウはいくらいくらの価値がある、とアンケートによって決めると言うもので、これが環境経済学としてアメリカでは公判に用いられるような位置づけにあるというのである |
馬場のぼるさんお別れの会」での仲間たち 2001.05.28
左から久里洋二さん 柳原良平さん やなせたかしさん |
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左から矢口高雄さん 水木しげるさん はらたいらさん |
左から赤塚不二夫さん 僕 杉浦幸雄さん |
やなせさんと林家木久蔵さん |
八島一夫さんと針すなおさん |
2001.05.28日 有楽町の東京會舘で馬場のぼるさんのお別れ会がありました。 去る四月七日に胃ガンのため亡くなった馬場さんのお別れの会で、漫画集団の仲間や編集者など大勢集まって、馬場さんを偲んだのでありました。というともっともらしく聞こえますが壇上でスピーチする人以外、誰一人馬場さんの話などしていませんでしたね。なにせ久しぶりに逢うのですから、互いの健康を確かめ合い、次に逝くのは誰だと言い合い、目一杯笑って楽しんでいました。 仲間にこよなく愛された馬場さんの話はしょっちゅうしてるのだから「いまさら」というわけです。 だいたい漫画集団の葬式ではげらげら笑ったりするので、仲間の内には「俺が死んで葬式に仲間が笑つても決して怒ってはならない」とカミサンに言い渡しているものもいるのです。 ご冥福をお祈りします。 ***************************************** 小学、中学と馬場さんや手塚さんの漫画を見て育った僕にとって、手塚さんや馬場さんは雲の上の人でした。だから漫画集団に入って初めて一緒に旅行した時など、もう嬉しくて嬉しくて、目の前にいるこの人が本物の馬場さんだぁ。と天にも昇るような気持ちだったですねえ。漫画集団で共に過ごした二十数年、馬場さんのあの名人芸を沢山見せてもらいました。日本の、そうですね、絵のうまさで言えば、昭和の総てのジャンルを越えて五指に入る方だったと思います。 長身で色白の馬場さんは、ヒョイヒョイと背伸びするような歩き方をする方で、すこぶる健脚でありました。それ故、山と渓谷社の編集者森田さんからよく山を誘われていました。また低山・温泉で一緒に行こうと言ってましたが・・・・・・ |